~17,周金剛(しゅうこんごう)~住職May 15 min read 中国の禅僧 徳山宣鑑(とくざんせんかん)は、「金剛般若経(こんごうはんにゃきょう)」という経文を徹底的に研究して、その詳細な解説書を書きました。姓が「周(しゅう)」であったので、金剛経に精通した和尚と言うことで、周金剛と呼ばれていました。しかし、自身が悟りを得た時に、その力作を燃やしてしまったと言われています。知識というものから離れ切ることこそが、仏教であることにお気づきになられたのです。 仏とは、すべてのものごとのはたらきのことを言います。ものごとのはたらきに一切の理屈が付かなければ、その様子が全部自分のことで、それがそのまま自分の本来で、そのまま仏です。しかし、私たちが物や人を見て、「これはこういうものなんだ」と思ったところから、私たちは、本来のものごととは全く違うものを見ることになるのです。似て非なるものを見るのです。 今から二十年くらい前のことですが、新潟県と群馬県の県境にまたがる巻機山(まきはたやま)という山に登山に行ったことがありました。朝早くに麓(ふもと)まで車で行ってそこから登り始めることになったのですが、登山口の案内の看板を見たところ、ガイドブックに載っている登山道と、渓流沿いの登山道の二つのルートがあることに気が付きました。どの道を選ぼうかと迷って見ていると、近くにいた登山者の人が「少し険しいけれど、渓流沿いの道の方が、景色がいいよ」とおっしゃったので、予定とは違う渓流沿いのコースで登ることをその場で決めました。 確かに、渓流沿いの道は、景色がよかったのですが、進むにつれて道が険しくなり、やがて一枚岩にしがみつくようにして前進するような道になりました。そして、大きな滝の脇に出たところで、とうとう急斜面の真ん中で進めなくなってしまったのです。さらに振り返ってみると戻ることも難しい状態でした。来たはずの道を戻れなくなってしまっていたのです。 自分がしがみついている岩は、滑りやすそうな一枚岩で、足を踏み外してしまったら、数十メートル下の滝つぼに真っ逆さまです。人間ピンチに陥ると、いろいろと想像力が働くもので、「山の中で携帯電話も通じないし、どうやって助けを呼んだらいいのだろうか」とか、「もし、落ちてしまって死んでしまうようなことがあったら、明日の新聞に載るかもしれない」なんてことまで考えたりしました。しかし、幸いにも後方からベテランの登山者の方が来て、その方の後について、登山を継続することが出来て、何とか山頂までたどり着くことが出来たのでした。 自分が動けなくなっていた時間は、ほんのわずかなことだと思います。短い間のことだけれど、ちょっと怖い思いをしました。登山というレジャーに来たつもりが、山という場所は一つ間違えれば、命を落とすこともあるという現実を突き付けられたのです。まさに自分の「思い」と「現実」の「差」を体験したわけです。 人がものごとに対して「思い」を持つとき、現実との「ずれ」が生まれます。それがつまりは「似て非なるもの」です。その差が大きければ大きいほど、いろいろな困ったことが起きます。 1958年に中国で大規模な鉄鋼業の改革と農業改革が行われました。その国家的な改革運動は、多くの杜撰なところがあり、大失敗に終わりました。特に農業政策の失敗は、深刻な食糧難を引き起こし、多くの死者を出したのです。実現不可能な目標を立てたり、毒性の強い農薬を使ったりと、その原因はさまざまだったのですが、失敗の原因の一つがスズメとネズミを徹底的に駆除したことでした。スズメやネズミは農作物を食い荒らす害獣であるとして、国民全員が一致団結して、徹底的に駆除したのです。ネズミがどこに隠れているかを見つけることは難しいかもしれませんが、一時、スズメが飛んでいる姿を中国の空でほとんど見かけなくなったそうです。 その徹底した害獣駆除運動の結果、何が起きたかというと、害虫の大量発生でした。実はスズメやネズミは農作物を少し拝借することがあったかもしれないのですが、同時に害虫を食べてくれてもいたのです。特にイナゴの大量発生は大きな被害をもたらしました。イナゴの大群が押し寄せて、農作物をことごとく食い荒らしたのだそうです。流通させる食糧ばかりか、農家の人々が、自分や家族のために作っていた作物まで壊滅的な被害にあって、恐ろしい飢饉が起こり、餓死した人は、三千万人とも四千万人とも言われています。歴史上類を見ない大飢饉です。 私たちは、ものごとを見て「これはこういうものなんだ」と考えずにはいられません。そういう性分ですので、それを止めることはできませんし、また、決して悪いことではありません。しかし、それは、現実と必ず「ずれ」が生じるものです。そのずれの部分が人間の面白いところでもあるのですが、それは同時に悩みのタネ、迷いのタネ、争いのタネになります。それは、登山というレジャーに来たはずが命の危機に遭遇してしまうことの原因になるかもしれないし、歴史上類を見ない深刻な食糧危機の原因になるかもしれないということです。 戦争などは、その顕著な例です。戦争の原因は、大金持ちのマネーゲームの延長だったり、頑迷な政治家のプライドのぶつかり合いだったり、本来の教義から外れた宗教家の対立だったりします。そして、戦争の被害者の多くは当事者ではない弱い立場の人だったりするのです。 しかし、そういうものの元は本来どこにもありません。けれども、その元がないところで困ったことがたくさん起きてしまうのです。そういうことに気が付くための仏教であり、坐禅なのです。徹底的に人間の理屈から一度でいいので離れてみるのです。人間の理屈は、根源的に比較から生じています。「善と悪」で比較したり、「優劣」で比較したり、「きれい汚い」で比較したりします。しかし本来そういうものはどこにもないのです。「生き死に」という比較すら本来成立しないし、「あなたとわたし」もないのです。そこに納得するのが仏教の修行なのです。
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