~19,瑯琊山河(ろうやさんが)~住職Jul 15 min read 中国の禅僧、瑯琊慧覚(ろうやえかく)に、修行僧が「すべてが清浄で意に叶っていながら、この世界は難行苦行の繰り返しであると首楞厳経(しゅりょうごんきょう)という経文の中にありますが、いったいどういうことでしょうか」と質問します。すると慧覚は「難行苦行と言われているこの世界こそがすべてが清浄で意に叶っている。これ以上ないものである」と答えます。 仏教では、「生まれる苦しみ」「老いる苦しみ」「病気になる苦しみ」「死ぬ苦しみ」を四苦(しく)と言います。それに「愛する人と別れる苦しみ」「嫌いな人と会わなければいけない苦しみ」「求めるものが手に入らない苦しみ」「自分の心や体が思い通りにならない苦しみ」を合わせて、四苦八苦(しくはっく)と言います。 しかし、それは、とらえ方次第で苦しみにもなれば、喜びにもなります。子供が生まれることは、喜ばしいことです。歳をとることは、経験を積むことでもあります。病気をすることは、忙しい現代人の生活において、いったん立ち止まって生きるとは何かを考えるきっかけをあたえてくれるかもしれません。本当に苦しい病の人に、いつまでも闘病を強いることには限界があります。死とはそういう体の苦しみからの解放とも言えます。愛する人とのつらい別れを経験した人は、同じ思いを抱えている人に寄り添うことが出来るかもしれません。嫌いな人と出会った時は、人生の経験を積む最大のチャンスかもしれません。求めたらすぐ得られるようなものは、きっと欲しいとは思わないでしょう。気持ちや身体が思い通りにならないからこそ、ものごとが面白いのです。 「人生とは難行苦行の連続である」と思うことも「人生は喜びである」と思うことも、私たちに必要な、大事な”喜怒哀楽”の感情のはたらきです。問題は、時折、その感情の表現がうまくできなくなってしまうことがあるということです。それが、悩みのタネ、迷いのタネ、そして争いのタネ、を作り出してしまうのです。 うまくいかない原因は、私たちが人やものごとを「比較」して見ているからです。 私たちが、これこそ自分であると思っているものは「比較」の中から生まれたものです。他の誰かと比較して、自分は人間社会のこれくらいのところにいると思っている自分です。比較から生まれたものなので、競争が大好きです。学校では、勉強やスポーツの競争をして、社会に出たらお金を稼ぐ競争をします。ちょうどよい競争ならいいのですが、激しすぎる競争は人間を疲弊させ、感情の表現が乏しくなる原因となります。 また、私たちは、自分自身のことまで比較するのです。「子どもの頃の自分」「若いころの自分」「大人の自分」「年をとった自分」「死んだ自分」を比較するのです。ある程度の年齢になると「若いころはよかった」とか「若いころにもっと努力しておけばよかった」とか言いたくなるものです。まさに四苦(しく)の苦しみです。 どうしても比較せずにはいられないというところが、私たちの切ないところです。ものごとを比較して、なるべくいいところに行こうと、ずっと考えてしまうところがとても切ないのです。 その比較してしまう自分を捨てきる修行が、つまり「坐禅」なのです。 仏教には「妙観察智(みょうかんさっち)」という言葉があります。妙観察智とは、人も、ものごとも、それぞれ全く別のもので、比較が成り立たないということを言っています。たとえ同じ人間であっても全く別のもので、比較ができないのです。比較がないので、それぞれがそれぞれのままで、これ以上ないところにいるのです。 自分自身のこともそうです。私たちはその時々の存在で、「子どもの頃の自分」「若いころの自分」「大人の自分」「年をとった自分」「死んだ自分」の連続ではないのです。”その時々で完成している自分”です。それは、常に生まれ変わる新しい自分です。そして、生まれ変わる新しい自分とは、常に生まれ変わる新しい宇宙のことなのです。これが本来の自己の様子なのです。 比較がないので、どの自分も完全なのです。生きる自分も、もちろん、死ぬ自分も完全なのです。それどころか、生きる、死ぬということすら本当はどこにもないのです。般若心経の言うところの、不生不滅(ふしょうふめつ)です。 こういうことは、理屈では理解できないので、修行で、納得するほかありません。 修行とは、特別なことでもなんでもなく、日常生活のことです。日常生活に自分を忘れ切ってあたることが、修行なのです。難しいか、簡単かはともかく、必ずできることです。 音楽を聴いて感動している時は、音楽そのものです。もし音楽を聴いている自分がいたら、きっとその曲が好きではないはずです。映画を見ている時は、映画の登場人物になっています。恐竜に追いかけられる映画を見たら、一緒に恐竜に追いかけられているのです。スポーツをする時は、スポーツそのもの、草取りをする時は、鎌になって、雑巾がけをする時は、雑巾になっているのです。本来、我を忘れて活動しているのです。 そこに比較する自分なんてものをさしはさむ余地がないということです。慧覚和尚が言う「難行苦行であるはずのこの世界のすべてが意に叶ったもので、これ以上ないものである」とは、そういう日常に気が付くことです。 それは、競争ばかりが人生の目的ではないことに気が付くことだったり、自分の感情を上手に扱うことだったりします。当たり前の日常のことですが、その比較しない日常のことこそが、いじめや暴力、戦争、自然破壊の回避の手段だったりするのです。
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