
坐禅について

~坐禅とは~
坐禅に必要なものは、自分の心と身体であり、知識や勉強のようなものは、かえって邪魔になります。そして、心と身体だけあれば十分と言っておきながら、自分が自分であると思っているものの全てから離れきる功夫(くふう)こそが坐禅なのです。
別の言い方をすれば、目の前のこと、それっきりしかないということを知ることです。そこに過去の自分やら、現在の自分やら、未来の自分やらをさしはさむ余地がまったくないということを知ることなのです。
この極めて単純な過程が仏教の修行なのですが、単純すぎるがゆえに、かえって分かりづらかったり、難しく感じたりすることがあります。けれども、そこが坐禅の面白いところであり、どなたでも取り組める修行であると言えるところです。
本当に自分というものから離れきりますと、見たり、聞いたり、触ったり、嗅いだり、味わったりしたと思っていた「私」というものが幻で、見たもの、聞いたもの、触ったもの、嗅いだもの、味わったものが本来の自己であったことに気がつくことになります。それを仏と言います。
仏とは、「仏様」というようなありがたいものを自分の外に作り、祈ったり、拝んだりする対象にすることではなく、この世界がどこまでいっても自分の様子でしかないことに目覚めた自己のことを言うのです。仏陀とは「覚者」という意味なのですから。
道元禅師はその様子を「一時なりといふとも三業(さんごう)に仏印(ぶっちん)を標し、三昧に端坐するとき、遍法界みな仏印となり、尽虚空ことごとく悟りとなる」と言っておられます。一時でも、自分が自分であると思っているよけいごとをさしはさむことなく、この世界を味わい尽くすことができたならば、ありとあらゆるものが、生物、無生物、生きていること、死んでいること、過去、現在、未来に関わらず、仏(自己)のはたらきをしていないことがないことが分かる、と言っておられるのです。そして、最後にその目覚めた自己の様子すら手放すのです。それがまさに坐禅なのです。
このようなことを私たちは、いつでも、どこでも目にしているはずなのですが、ただそれに気がつかないのです。坐禅は、自分の中の何かを変えることではなく、そういう「勘違い」から逸脱して、本来の様子に「気がつく」、それだけのことなのです。それだけのことなのですが、その、それだけのことがとても重要なのです。
○東山寺では、毎週日曜 早朝5時から7時に日曜坐禅会を行っています。
※参加費は無料です。※要申込
参加希望の方は前日18時までにご連絡ください。
~坐禅の形~
服装
坐禅の服装は、ジャージのような動きやすい服装が好ましいです。
敷物
大きめの座布団のようなものを敷いて、さらにその上に坐蒲(ざふ)と呼ばれる坐禅用の丸いクッションを置きます。この坐蒲は、インターネットでも買えますが、ない場合は、座布団を二つ折りにしたものを使用するといいでしょう。
結跏趺坐(けっかふざ)・半跏趺坐(はんかふざ)・胡坐(あぐら)
丸いクッションのような坐蒲の前側三分の一ほどの部分にお尻を下ろして、まず胡坐(あぐら)をかいてください。やってみればわかりますが、深く座ると身体を支えることがつらくなります。
基本的な足の組み方は、結跏趺坐(けっかふざ)と半跏趺坐(はんかふざ)の二種類があります。

結跏趺坐(けっかふざ)
結跏趺坐は、右の足を左の太腿の上にのせた後に左の足を右の太腿の上にのせて足を組みます。

半跏趺坐(はんかふざ)
半跏趺坐は、左の足で右の太腿の上に押すように浅くのせるようにしてください。
このいずれの形も難しい方は、胡坐でも構いません。
結跏趺坐も半跏趺坐も、胡坐であっても両ひざの外側がしっかりと座布団の上に乗っかっていることを意識してください。お尻、両膝の三点で身体を支えることが重要です。そうすると身体が安定します。
椅子・その他
皆様の身体の状態、個性というものがあるので、無理をして、結跏趺坐や半跏趺坐をしなければいけないということはありません。椅子に座って坐禅をすることももちろんできます。ただ、背筋をまっすぐ伸ばすことが楽にできる椅子がお勧めです。体の都合で起き上がれない人は横になっている状態でも構いません。ただ、ほんとうに眠ってしまってはいけません。
椅子坐禅

上半身を安定させる
下半身を安定させることができたなら、上半身を前後左右に揺らし、身体が安定する位置を探してください。位置が決まったら、頭頂が天井に引っ張られているようなイメージで、背筋はなるべくまっすぐ伸ばしてください。
体制を作る
背筋を伸ばす


法界定印(手の形)

手の形は、まず、右手の平の上に左の手の平を載せて、その状態で親指を向き合わせて卵の形を作ってください。親指の間はほんの少しだけ空くようにしてください。そしてその手の平をすとんと落とすように股の前に安置してください。
目は、うっすらと開けて、斜め四十五度下を見るようにしてください。口は閉じて、鼻で呼吸をするようにしてください。肩の力を抜いて背筋を伸ばし、手の形を意識しながらも、身体の力をなるべく抜いてください。呼吸は、ゆっくりと普段よりは深いものにするといいでしょう。こうするとことで、長時間、身体を安寧に保つことが可能になるのです。
経行(きんひん)
経行とは、端的に言うと歩く坐禅のことです。長時間座った身体をほぐすはたらきもありますが、これもまた一つの坐禅の形です。
まず、手は、左手の親指を軽く握こむ形の拳を作ります。左手の親指の付け根上のくぼみに右手の親指の先を置くようにして、右手をかぶせます。そのように重ねた両手をみぞおちの高さに持っていき、みぞおちより、拳一つぶん離して、両肘が体につかないようにしてください。これを叉手(しゃしゅ)と言います。この手の形を作り非常にゆっくりと歩くのです。背筋はまっすぐ伸ばし、深い呼吸、一息吸って、一息吐く間に半歩進むようにして下さい
経行

心
身体を安寧に保つ形がととのったならば、自分が自分であると思っている余計事から離れきる功夫(くふう)に徹して下さい。あるいは、自分が目の前のことそれっきりであることを知る功夫に徹して下さい。実はこの二つのことは全く同じことで、一つがわかれば、同時にもう一つの意味がわかります。そして、その功夫こそがまさに坐禅をするということです。逆に、それ以外のことをすると抜け出せない思考の袋小路に入ってしまうことになります。
福井県の発心寺の原田雪溪(せっけい)老師は、呼吸を忘れて座ると言っておられますが、呼吸をしているという意識すら、余計事、幻であるということをよく知るということです。昔の道場では、それを自分を殺し切ると言ったそうです。他の誰かと比較して、人間社会のだいたいこれくらいのところにいると思いながら、ものごとを観察している自分こそが自分であると思うことが大いなる勘違いであったと気がつくことです。
自分という幻の器がやぶれると、いつでも生まれたての、大自然、大宇宙に遊ぶ自由自在の元々の自己に出会うことになるのです。