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~21,曹山孝満(そうざんこうまん)~

  • touzanji37
  • 8 hours ago
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 中国の禅僧・曹山本寂(そうざんほんじゃく)に、修行僧が「親が死に、三年の喪に服した後、喪が明けて、その喪服を脱いだ時はどうなのですか」と聞きます。すると曹山和尚は「まさに親孝行が満ち足りた」と答えます。さらに修行僧は「では孝行が満ち足りた後はどうなのですか」と聞きます。すると曹山は「大酒を飲んで酔いつぶれるよ」と答えます。


 昔の中国では、自分の親が死ぬと白い粗末な喪服を着て、墓の近くに小屋を建てて、墓守をして、三年の間、喪に服したのだそうです。なかなか大変な親孝行です。しかし、このお話で言っている「親孝行」とは、実は修行のことなのです。修行を喪に服すことにたとえているのです。


 道元禅師は、お師匠様の天童如浄(てんどうにょじょう)禅師のところで、三年間、わき目も振らず坐禅をされたそうです。なんと隣で坐禅をしていた人の顔をずっと知らなかったくらい修行に集中していたのだそうです。

 それがここで言う「喪に服す」ということです。そして、「親孝行が満ち足りた」とは、修行が完成したということです。

 さらに修行僧は「修行が成就した後はどうなのか」と聞きます。

 曹山は「大酒を飲んで酔いつぶれる」と言いますが、悟りのお祝いの席をもうけてお酒を飲むわけではなく、これまでとかわらない生活をしていながら、お酒を飲んだ時のように、朗らかで、満ち足りた、この宇宙に遊ぶ自由自在の自分を知るということをお示しになっておられます。


 作家、向田邦子の、ご自身とご家族のことを題材にしたエッセイ集「父の詫び状」の中に、東京空襲の後に食べた精進揚げと結核の診察の後に食べたウナギのお話が載っています。いずれも気持ちが穏やかでない時に食べたごちそうの話なのですが、向田邦子は「どんなごちそうでも気持ちが晴れないとおいしく感じられない」と最後に締めくくっています。


 非常に気持ちが落ち込む出来事があった時など、日常の生活の全てが苦痛に感じられるような時があります。ひどい時など、眠れなかったり、食事が喉を通らなかったりします。家事や仕事などの日常生活の全てが苦痛になり、立ち上がって歩くことすら億劫です。こういう状態が長く続いてしまうと身と心がすっかり疲弊してしまいます。まさにそれが「喪中」です。


 それは、望んでいないのにも関わらず、日常生活が修行になってしまっているということです。


 修行というと「滝行」のような非日常のものを想像しがちですが、修行とは、むしろ日常であり、特別でもなんでもないことだったりするのです。いつもやっている、やらなければいけない日常のことであるということです。


 例えば、修行道場においては、食べることも修行です。

 お寺の食事は、応量器(おうりょうき)という登山の時に使うコッフェルのような木製の器を使います。それは、大きな器の中にいくつかの小さな器が重ねてしまい込まれている構造で、それを並べて、食事をします。


 食事をする前は、「聞槌(もんつい)の偈(げ)」「展鉢(てんぱつ)の偈」「十仏名(じゅうぶつみょう)」「五観(ごかん)の偈(げ)」「擎鉢(けいはつ)の偈(げ)」などのお唱え事をします。そして、ようやく食事になるのですが、一番大きい器に口をつけてはならない、汁物をすすってはならない、器を置く時は丁寧に音が一切出ないように置く、など基本的な作法にも気を配らないといけません。


 最初の内は、なかなか食べた気がしないものですが、しかし、本当に食べた気がしないのであれば、それが正解なのです。食事が終われば、食事をしていた時の自分なんてどこにもいないのです。本来私たちは、その時々の形なので、食べる前の私、食べている私、食べた後の私、の連続ではないのです。すべてがその時々でこれ以上なく完成しているのです。


 すべてがそこで終わっているので、過去へのとらわれもなければ、未来への憂いもないのです。そういうことに気が付くことが坐禅なのです。


 過去のことは、いくら後悔しても変えることはできません。手も足も出ません。残念ながらそうなのです。どうしてもそこに納得するほかないのです。


 ちょっと難しいことに挑戦して、それを成し遂げることが人生のだいご味かもしれませんが、思う通りの結果が出ないのも、また人生のだいご味です。

 思い通りにならないことについて、必ず結果を出さなければならないと思い始めると、それが苦痛になってしまって、深刻な悩みのタネになることがあります。


 もし、それで、生活がままならないことがあるというのであれば、一度、逃げてみるのもありです。逃げる時は、徹底的に逃げるべきです。それも立派な修行です。

 一度、ひいてから、また挑戦してもいいし、そのまま逃げ切るのもありです。誰かに迷惑をかけることがあるかもしれないけれど、心の病になってしまって、もっと迷惑をかけることよりはずっといいはずです。


 皆さんは、その時々の皆さんのままでこれ以上ないところにいるのです。もう完成されているのです。無上仏果菩提(むじょうぶっかぼだい)です。それに気が付くまでが修行なのです。

 結果ではなく、その時々の形で完成されているのです。

 それがわかるとすべてにおいて自由自在ということです。

 後は、酔いつぶれるまで飲んでお祝いをするのみなのです。

 

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