~18,厳陽一物(げんよういちもつ)~住職20 hours ago5 min read 中国の有名な禅僧・趙州(じょうしゅう)和尚に厳陽(げんよう)という弟子が「自分は修行ができて、もう何も捨てるものがなくなりました。」と言います。趙州は「では、さらに、そういうふうに思う自分を手放しなさい。」と言います。すると厳陽は「手放すものがないのにこの上、何を手放せと言うのですか。」と言います。それに対して趙州は、「手放すことができないのなら、担いで持って帰ればいい。」と言います。 坐禅というものは、まさに、自分というものを、かけらも残さず手放し切る修行です。それさえできれば、日常のすべてが坐禅であり、悟りであり、仏であることに気が付くことが出来ます。 東山寺に坐禅に来られる人で、坐禅に関する書物をたくさん読んでくる人がいます。そういう人の中には、自分は、難解な書物を読破して、「坐禅のことはよく知っている」と思っている人もおられます。確かに、書物は坐禅に興味を持つきっかけにはなりますが、坐禅は学問ではないので、そういうものは、かえって修行の邪魔になってしまいます。そういう自分の一切を捨てきるということが大事なのです。 福井県小浜市にある発心寺専門僧堂の住職だった原田雪渓老師は、坐禅会に来た在家の参禅者の方に「お寺に来たら、坐禅に徹してください。しかし、おうちに帰ったら坐禅は忘れて下さい。」と言ったそうです。 普通の家庭に修行道場の作法やら、えらい和尚さんの法話やらをもちこんであれこれ家族に言うようなことは、家族にとって、とても迷惑なことであり、それは坐禅でもなんでもないということです。むしろ、そういう自分を捨てきって、どうやったら自分の家族が望む幸せな家庭が築けるのかを一生懸命考えて実践することの方がよほど坐禅です。 家族に対しても、家族以外の人に対しても、「これこそが正しいんだ」という考えや、素晴らしい思想、あるいは仏法のようなものが頭の中にあって、相手と接すると「自分の方が正しいんだ」という考えが邪魔してしまって相手の事情がきちんと入ってきません。 以前、知り合いのお嬢さんが学校に行かなくなった時、兄弟弟子にそのことを話題に出して「どんな事情があったとしても、学校には行かせるべきだ」と言ったことがありました。こう言ったのは、自分なりのわけがありました。 実は、自分も高校生の時に、親に学校をやめたいと言ったことがありました。特にいじめられていたとか、そういうことがあったわけではないのですが、あまり学校に行くことが面白くなかったのです。しかし、その時は、親に説得されて、しぶしぶ高校に通いました。 今思うと、本当にあの時、高校をやめなくてよかったと思っています。たとえ、意にそぐわないことがあったとしても、当時の自分にとって、学校は、唯一の社会との接点であり、人生の新しいステージへの入り口だったと思っています。 そういうことがあったので、兄弟弟子にそのように言ったのです。しかし、兄弟弟子は「そういう力押しの考えはよくないです。人には人の事情があるんです。」と言いました。彼には、そういう登校拒否の子供たちと接した経験があり、学校に通いたくても、心と身体の事情が許さない子供たちがいるというのです。ちなみにその兄弟弟子は、高校を卒業してから四十歳まで自衛隊をたたき上げで務めあげた強者で、まさかそんな答えが返ってくるとは、少し意外でした。 しかし、その後、その知り合いのお嬢さんと接する機会があり、よくよく話してみると、彼女には、彼女なりの学校に行けない事情があったということが、よく分かったのです。そのお嬢さんは、今は、通信制の学校に通い、得意の絵やデザインを生かして人生を模索中です。 人には、「他人にはなかなか理解されない事情」があるものです。 ちなみに、実は、私にも人にあまり理解されない事情があります。それは、「まわる」ということがとても怖いということです。テーマパークにある高速で回る遊具やジェットコースターはもちろんのこと、メリーゴーランドですら実は苦手です。好きなSF映画の「インター・ステラー」で宇宙船が重力を作るために回転するシーンがあるのですが、実はそこだけ直視できなかったりします。 どうしてそうなのかは、自分でもわかりません。ちなみにバンジージャンプやウォータースライダーは平気なのです。高所恐怖症や閉所恐怖症などがある人はきっとこういう気持ちなのかもしれません。そういうことは、本人によく聞いてみないとわからないことだと思います。 会社の営業職を務めあげた東山寺のお檀家の方が「営業マンは、政治と宗教と野球の話はしない」と言っておられました。これらの話題は、お互いに譲れないところがあり、ともすればケンカのタネになってしまうのだそうです。これでは、相手のお話を聞いて、商売のチャンスをつかむことができません。 実は、坐禅のお話もこのたぐいであると言うことができます。ケンカや争いのタネになりやすいのです。そして、坐禅についてのお話は坐禅ではありません。 たとえ、仏教史に名を残すような有名な禅僧の話であっても、それは坐禅ではないのです。もちろん、わたしのこの話もそうです。 人の話は、皆さんを坐禅にいざなうことはありますが、それを知識として受け取ってしまってはかえって妨げになるのです。 そうではなくて、坐禅とは、まさに皆さん自身のことなのです。皆さん自身とは、皆さんの「日常の活動の全て」であり、また、私たちが「六根(眼、耳、鼻、舌、身、意)で体現する宇宙そのもの」のことなのです。それがそのまま坐禅であり、そのまま仏なのです。本当にそのままなので、それ以上、「手を付ける必要がない」ということです。本当にそのことにただ気が付くことが坐禅の実践です。それは、書物に頼らずとも常に自分の体験として分かち難くあるものなのです。だから、それを誰かが書いた書物に求める必要がそもそもないということです。
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