~7,百丈野狐(ひゃくじょうやこ)~住職Jul 15 min read 百丈懐海(ひゃくじょうえかい)は、禅の世界ではよく知られた人物です。中国の和尚さんですが、たくさんのお弟子さんがおられ、百丈山(ひゃくじょうさん)で、その指導にあたられた人です。懐海は、日々、本堂で説法を行ったのですが、いつのころからか弟子たちの中にまじって見慣れない老僧が自分の話を聞いていることに気が付きます。ある時、聴衆が去った後に、その老僧が居残っていたので、懐海は、何者であるかと質問します。するとその老僧は、自分が500年前の昔、この百丈山で住職をしていた者であると不思議な告白をします。弟子の「坐禅の修行が成就すれば、因果(いんが)の煩わしさから一切解放されますか」という質問に対して「不落因果(ふらくいんが)(因果に落ちない。因果より解放される)」と答えたのだけれど、それが間違いであったために、野狐(やこ)の身に堕ちたと告白します。老僧は、懐海に「どうか、この身を救ってほしい」と頼みます。懐海は、「不昧(ふまい)因果(因果をくらまさない。因果そのものが悟りである)」という言葉を老僧に与えます。するとたちまち老僧は成仏するのです。 最初に言っておきますが、野狐という500年生きる妖怪は存在しません。それは、我々の迷いの象徴で、私たちがそれこそが「自分自身」であると思っているもので、それは、全部幻なのです。因果とは、動かない状態に見えるものごとのことです。そして、動いている状態に見えるものごとのことは因縁(いんねん)と言います。因果と因縁は、まったく同じもので、世界の全てのことを指し、そして、それがそのまま仏の様子で、そのすべてが本来の皆さん自身のことです。 言い換えると、この世界を観察している自分は幻で、観察した世界こそが自分なのです。「そんなわけあるか。」と思う方も当然おられると思いますが、坐禅をするとそういうふうにものを見るようになるのです。普通の価値観とかけ離れているかもしれませんが、こういうものの見方も決して無駄ではないのです。 私たちが、自分が自分であると思っているものとは、比較の自分です。他の誰かと比較して人間社会のだいたいこれくらいのところにいると思っている自分です。比較の中から生まれたものなので、競争を好み、嫉妬や妬みを発症しやすいです。そして、それでいて正義の味方なのです。 これらの特徴は、ちょっとしたきっかけで、いわゆる「いじめ」の要素になります。自分より少し優れている、自分より少し劣っている、自分の正義に少し外れている、なんでもいじめの理由になってしまうのです。そういう自分は、幻なので、いかように変化します。いいように変化すればいいのですが時には、とんでもない魔物に化けることがあるのです。 例えば、テレビなどで自給自足の生活をしている人が紹介されているのを見て、大変なことも多いけれど、そういう生活も悪くないと思う人もいると思います。自然と触れ合ったり、素朴な生活をしたりすることは悪いことではありません。しかし、こういうことだけが人間の生活の全てではないことは皆さんもご存じの通りです。 1975年からの4年間、ポル・ポトという人は、カンボジアの首相でしたが、原始共産制という極端な政策を行い、国家を混乱に陥れました。原始共産制とは、原初の人類は、上下の関係がなく、少ない食料や物を仲よく分け合って平和であったという考えに基づくもので、文明から離れた素朴な生活こそが素晴らしいという思想です。それ自体、悪いもでも良いものでありません。けれども、必ずその生活をしなければいけないとなるといろんな困ったことが起きたのです。 ポル・ポトは、都会に住む人を農村部に強制移住させたり、富裕層や知識人層の弾圧をおこなったりしました。そして、思想の妨げになると考えた人々をたくさん殺しました。犠牲者は、実に150万人とも200万人ともいわれております。自然や平和を愛することは、いいことのはずなのに、人殺しの理由になってしまったのです。 良いことや正しいことは時折、偏った正義になることがあるということです。 だれかとケンカをしている時のことを思い出してみてください。 ケンカをしている人は大抵こう言います。「オレが正しくてお前が間違っている。」でもケンカの相手は、きっとこういうでしょう。「いやいや、オレこそ正しくてお前こそ間違っている。」 ケンカは、正しいことと、正しいことのぶつかり合いです。正しいと主張し合っている間は、争いは終わりません。 昭和の時代に活躍した禅僧 井上義衍(いのうえぎえん)は、怒りが爆発しそうになった時「南無」と唱えたそうです。「南無」とは、サンスクリット語で帰依(きえ)するという意味ですが、言葉を小さく発すると、怒りに燃えた自分が少し引っ込むのだそうです。叱責の言葉や暴言の代わりに相手を説得する穏やかな言葉が口から出てくるというわけです。 実は、こういうことがまさに坐禅なのです。 坐禅とは自分が自分であると思っていることを手放す功夫(くふう)です。薄暗いところで座っているのは、一つの形でしかありません。難しいか簡単かはともかく、体力も、難しい勉強も必要ありません。理屈で自分を納得させたり、理屈で考えを曲げたりするのではなく、手放すのです。理屈や思いは、長い間持っているといつか毒になることがあるのです。どこかでそれを全部手放す必要があるということです。そして、面白いことに、すべてを手放すことは、この世界の全てを手に入れることなのです。
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