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~9,馬祖白黒(ばそびゃっこく)~

  • 住職
  • Sep 1
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 中国は唐の時代に馬祖道一(ばそとういつ)という禅僧がいました。牛のように歩き、虎のように視て、舌を上に伸ばすと鼻の上まで届いたという異相(いそう)の人だったそうです。多くの弟子の指導をして、沢山の名僧を世に出した人でもあります。


 その馬大師のところにある時、一人の修行僧が仏教の真意を自分に説いてほしいとやって来ます。すると馬大師は、「自分は、今日はもう疲れた。そういうことは自分の高弟の智蔵(ちぞう)に聞いてくれ」と言います。

 するとその修行僧は、言われたとおり馬大師の高弟・智蔵和尚に質問に行きます。しかし、智蔵和尚は、「今日は頭痛がするので答えられない。兄弟弟子の懐海(えかい)和尚に聞いてくれ」と言います。

 修行僧は、今度は懐海和尚のところに行きます。ところが、懐海和尚は、同じ質問をされると「わたしにはそういうことはわからないので答えることはできない」と言います。

 修行僧は、言われたとおりにいろいろと聞いてみたけれど、誰も答えてくれないので、仕方なしに再び馬大師のところに戻ってきます。

 すると戻ってきた修行僧に馬大師が「智蔵は歳を取っているので少し伸びた髪の毛が白くて、懐海は、若いので髪が黒かっただろう」と言うのです。


 これは「馬祖白黒」という禅のお話です。


 修行僧は、誰も質問に答えてくれず、あちこちたらいまわしにされるのですが、別に意地悪をされているわけではありません。馬大師も、智蔵和尚も懐海和尚も、実はちゃんと質問に答えているのです。

 「坐禅は言葉の上に乗るものではないよ」と言っているのです。

 ものごとが言葉になる前、自分という余計事が入り込む前、見たもの、聞いたもの、触ったもの、味わったもの、嗅いだものが全て仏であるということを言っているのです。実は、智蔵の頭が白くて、懐海の頭が黒いということですら余計事です。

 そういうことに納得するためには、自分が自分であると思っている余計事を捨てきる修行が必要だということです。勉強をして知識を蓄えたとしてもむしろ迷いのタネが増えるばかりです。逆にそういう人としての見解から一切離れ切らなくてはなりません。

 そして、その功夫こそがいわゆる坐禅なのです。寒くて暗いところでじっと座っているのはただの形でしかありません。その功夫さえできれば布団の中で寝ていても坐禅になるのです。


 では、なぜいちいちそんなことをしなければいけないのかというと人の見解というものがそのまま全て迷いであり、それが悩みや争いのタネを作り出しているということです。そして、作り出すばかりか無限大に増幅させているのです。

 一度でもそういうことから本当に離れ切らないと、本当の平和、安心というものが得られないということです。


 例えば、私たちはカラスのフンや、人間のつばや痰と言ったものを一般的に汚いものとして認識しておりますが、それぞれの扱いは、ちょっと違ったものになります。


 誰しも、人生で一度くらいは、鳥にフンをかけられたなんて経験があると思います。

 お寺の墓地にカラスがたくさんいるのですが、私もカラスにフンをかけられたことがあります。カラスにフンをかけられた時、私は空に向かって、カラスをののしり、一日中カラスが嫌いでした。「いつか焼き鳥にしてやる」なんてことを考えたりしました。ところが、三日もするとそんな思いはどこかに行ってしまうのです。そして、一週間もするとカラスにフンをかけられたなんてことは忘れているのです。カラスにフンをかけられるなんてことはだいたいそれくらいのことだと思います。


 ところが、人間につばや痰を吐きかけられるなんてことは場合によっては一生の恨みとして思うこともあるのです。そうでなくても何か屈辱的な言葉を言われたりするとすぐには忘れることのできないいやな思い出となるのです。相手が人間であると人の感情はなぜか穏やかというわけでいかないのは、興味深いところです。


 そんなことは当たり前だとおっしゃる方も多いと思いますが、その理由を誰もが納得できる形できちんと説明できる人はおそらくいないでしょう。なぜなら、カラスのフンは忘れてもいいけれど、人間につばを吐きかけられることやいやなことを言われることは屈辱的で、ずっと覚えておかなければいけないということには根拠がとても乏しいからです。しかし、なぜか多くの人がそんなふうに思っています。そこに万人を納得させることできるような確かな理由がないのにそうなのです。


 仏教に、「諸行無常(しょぎょうむじょう)、諸法無我(しょほうむが)」という言葉があります。ものごとは常にやってきては去っていくことを繰り返していて、そのあとには何も残らないという意味です。カラスのフン同様、人間のつばや痰も拭い去れば、もうそれで終わりです。ましてや言葉は、どんな屈辱的なものあっても、言い終わったら、影も形も残りません。

 

 しかし、そのあとに何かが残っていると思っていることが問題なのです。その残っていると思っているところが、事実の何倍にも膨らんで、人は大いに悩み、ときには相手を殺してしまうほどの争いにタネになってしまったりするのです。きちんと説明できないようなあいまいなことが人を苦しめる怪物になるということです。


 もう一つ例をあげますと、その昔、今より千七百年ほど前のこと、キリスト教が古代ローマの国教になる直前に、聖書の書き換えが行われたそうです。キリストを磔(はりつけ)にして、殺せと叫んだのは、ユダヤ人であるという書き換えが行われたのです。それは、宗教的な理由ではなく、あくまでも政治上の理由でした。キリスト教徒を懐柔するには、悪者を作っておいた方がいいというくらいの理由です。


 ユダヤの人たちは、ローマに自分の国を占領されてから自分の土地というものを失いました。実に二千年もの間、ヨーロッパやイスラム社会などで散り散りばらばらに生活をします。そして、「キリスト殺し」というレッテルを張られたユダヤの人は特にヨーロッパにおいて長い間迫害を受けることになります。十字軍の攻撃対象になったり、スペインでは国外追放にあったり、ベラルーシやウクライナ、リトアニアでは、ポグロムと呼ばれる暴力的な迫害を受けました。このようにヨーロッパの社会になじめないユダヤの人たちは、やがて、かつて自分たちの祖先が住んでいた土地に帰ろうという思いを抱くようになり、その思いは、どんどん強くなります。そして、ナチスドイツによる六百万人の虐殺という恐るべき歴史を経て、1948年に現代のイスラエルを建国するのです。


 問題は、イスラエルを建国したパレスチナの地には、ユダヤの人たちがこの土地から去った後に別の人たちが住むようになっていたということです。イスラエルの建国はその人たちを暴力的な方法で追い出して行われたのです。このことは、多くの難民を生み出し、どちらかと言えば、歴史的にユダヤの人たちに寛容であったイスラム教の人たちと何度も戦争を繰り返す原因になりました。そして、現在もその問題は全く解決していません。

 イスラエルの人たちの中にももちろん戦争に反対している人はたくさんいるのですが、戦争を推進している人たちは、徹底的に戦い続けることを宣言しています。

 ローマによる聖書の改ざんが千七百年も後の時代の戦争の一因になっていることは驚くべきことです。それも根拠のない改ざんです。そして、それよりも何よりもアラブの人たちは、本当にイスラエルの敵なのかということです。彼らは、かつてユダヤの人たちを迫害した人達の子孫では全くないということです。

 理由も根拠もあいまいで、正義らしいものはどこにもないことで、何万、何十万もの人が死ぬことは、極めてばからしいことです。


 人間は、根拠のないあいまいなことに理由をつける名人です。そういうことは役に立つこともあるかもしれませんが、それは同時に迷いと争いのタネを生み出すことでもあります。そういうものを一度でもいいので全て捨てきってものを見るということが大事なのです。学問や知識、経験のようなものももちろんのこと、自分の正義や宗教までも捨てきるのです。仏教の教えや坐禅という観念ですら、邪魔者なのです。そうするとないもので悩み、ないもので争っていた自分に気が付くのです。本当の平和、安心が何なのかということに気が付くのです。生きるとは何か、死ぬとは何かということがわかるのです。そういう功夫がいわゆる坐禅なのです。

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