~10,無心~住職Oct 15 min read 些末(さまつ)な思いが浮かんできてそれが止まらないことを起滅不停(きめつふじょう)と言います。よく参禅の人がこのことについて質問をしてきます。 昔の中国で羅山(らざん)という僧侶が自分の師匠である巌頭(がんとう)に「起滅不停の時如何(きめつふじょうのときいかん)」と質問をします。巌頭は、それを叱って「そんなものを相手にしているとは何事だ。お前の相手は、それではないぞ」と言います。それを聞いた羅山は、たちまち悟りを得るのです。 坐禅を言葉で表すとき、よく「無心」とういう言葉が使われます。「無心」とは何も考えないことではありません。心というものが実体のないものの集まりであることに納得することです。 私たちの頭は、常に些末なことを考えるようにできております。それは、どうやっても止まりませんし、些末な考えを起こさないという努力は、仏教の修行とは関係のないことで、徒労に終わることになります。 必要なのは、「何も考えない」努力ではなくて、いろいろと浮かんでくる考えに「さわらない」努力なのです。「さわらない」とは、否定も肯定もしないということです。また、その些末な思考を邪魔にもしなければ、それを追いかけもしないということです。追いかけようとすれば、そういう考えに執着することになります。また、邪魔にすれば、今度は邪魔にするという思考がはたらくようになります。 坐禅というものは、自分の考えに手を加えて、それを磨き上げていくことではありません。頭のいい人ほど、そういうゲームに熱中しやすいです。しかし、それでは、永遠に抜けだせない迷路をさまようことになるのです。そうではなくて、道元禅師の普勧坐禅儀(ふかんざぜんぎ)にあるように「心意識の運転を止める」ことこそが修行であることに気が付かなければなりません。そして、そういうものから一度”はなれきる”のです。 十九世紀の中国の人で洪秀全(こうしゅうぜん)という人がいます。洪秀全は、科挙と呼ばれる中国の非常に難しい官僚採用の試験に何度も挑戦しますが、とうとう合格することができませんでした。 落第の原因は勉強の環境にあまり恵まれていなかったせいであるとも言われています。洪秀全は、最後に受けた試験に落ちた時にショックのあまり熱を出して寝込んでしまいます。そして、彼は熱にうなされながら不思議な夢を見ます。熱がさめて、思い当たるところがあり、少し前に中国に来ていた西洋人の宣教師からもらった聖書の中国語訳を取り出して読んでみます。 洪秀全は、その中身が、自分の夢とことごとく一致していると思い込みます。 そして、彼は、「自分は神の子であり、キリストの弟である」と宣言するのです。 洪秀全は、上帝教(じょうていきょう)という宗教団体を立ち上げて、それを布教する活動を始めます。 荒唐無稽(こうとうむけい)な話ではありますが、非常に不安な要素が多かった当時の中国の情勢も手伝って、信者の数は、どんどん増えて五十万人を越える数になります。やがて彼らは武器を持って武装するようになり、とうとう清王朝(しんおうちょう)の軍隊と衝突して、内戦状態になります。世界史の教科書にも載っている「太平天国(たいへいてんごく)の乱」です。太平天国は、中国南部の村や街をことごとく支配下に置き、大都市南京を拠点として、一時期首都北京を陥落させかねない勢いになりました。しかし、南京市内で仲間割れを起こし、内輪もめで、四万人の死者を出すなど次第に力が衰えていき、最後に李鴻章(りこうしょう)が率いる清王朝側の軍隊に滅ぼされます。その際、南京の街は、徹底的に破壊され、略奪されたそうです。 太平天国は、支配下においた村や街で略奪や殺人を徹底的に禁止するなどの規律正しいところがあり、中国共産党などは一時期、中国最初の農民反乱として、高い評価をしていました。しかし、最終的には、その規律も守られなくなり、また、決定的な仲間割れが起きてしまい、仲間内での争いで多くの死者を出します。太平天国の乱で死んだ人の数は実に二千万人と言われており、人類史上最悪の内戦と言われております。 もし洪秀全が熱にうなされて見た夢を夢のままにしておけば、そういう事態も避けられたのではと思わずにはいられません。 このようなことは、現代を生きる私たちにも身近な課題であると言うことができます。私たちの頭の中にある些末な考え、つまり「起滅(きめつ)」とは、私たちの根源的な感情である「好き」「嫌い」の元になります。こういうえり好みは、決して、悪いばかりのものではありません。人生に「いろどり」を与えるものでもあるのです。 こういう感情があるからこそ青春時代が充実したものになったり、人生というものにやりがいを感じたり、音楽や文学、絵画、映画のような芸術が生まれたりするのです。 その反面、世の中には、自分には決して振り向いてくれない異性に財産の全てを渡してしまう人がいます。借金を重ねてまでギャンブルを繰り返す人がいます。ゲームをやりたい欲求が強すぎて夜も眠れない人がいます。私は、三十代の頃、市民マラソンに熱中していたことがあり、練習のし過ぎで、膝が痛くなってしまい、お医者様に行ったところ「オリンピックの選手でもあるまいに」と言われたことがあります。「好き」「嫌い」という人間の根本的な感情は、薬のようなものです。処方箋のとおりに飲めば、身体や心の安定につながるものですが、大量に服薬すれば身を滅ぼしかねない毒にもなります。 だから、どこかでそういうものに執着してしまう自分を手放すことが必要なのです。頭の中に浮かんでくることを追いかけることも執着ですし、また、そういうものを邪魔にして追い払おうとすることも執着です。頭の中に浮かんでくる些末な考えに「さわらない」ことに徹することが肝心なのです。 否定も肯定もせずに、そういうものから一歩飛び出すのです。 一歩飛び出せばもう充分です。だいぶ、見える景色が違ったものになります。そして、一歩飛び出したところから坐禅になるのです。そうしますと厄介な感情であるはずの「好き」「嫌い」が薬になるのです。
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