~12,般若心経~住職7 days ago6 min read 般若心経は、お釈迦様が入滅されてから約五百年後にインドで成立した経文であると言われています。中国は唐の時代、玄奘三蔵によって、中国にもたらされ、漢文に翻訳された後に日本に伝わりました。 般若心経に書いてあることは、一言でいえば「空」何もないということです。◇是諸法空相(ぜしょほうくううそう)「この宇宙のすべては、ことごとく寄る辺(よるべ)のない実体のないものだ」◇不生不滅不垢不浄不増不減(ふしょうふめつふくうふじょうふぞうふげん)「実体がないので、生ずることもないし、消滅することもないし、汚れることもなければきれいになることもない。増えもしなければ、減ることもない。」とあるようにすべては、かりそめの実体のないものであると述べています。それは人間の身体や、そのはたらきも同じで、心のはたらきも実体のないものだと言っています。それどころか、悩みや迷いももちろんのこと、仏の「悟りの知恵」すらないと言っています。それ故に私たちは一切の妨げがなく、限りなく自由で、限りなく平等であるというのです。 なんだかわかるような、わからないような内容です。 日本人によく知られている経文ですが、その内容は難解で、あまり「ありがたくない」というのが、正直な感想ではないでしょうか? しかし、実は、学問で理解することは難しいのですが、修行で理解することは実はそれほど難しくはないのです。例えて言うなら、自転車に乗るようなものです。自転車の乗り方を覚えるのに千冊もの本を読む人はいないはずです。ただ乗ればいいのです。 そして、修行とは、自分が自分であると思っているものが全ての悩み、迷い、争いの原因を作っているということに気が付くということです。だから、そういう自分を一度でもいいので全て脱ぎ去るということです。そしてそれがいわゆる坐禅なのです。たったこれだけの努力ともいえないようなものが修行なのです。簡単か難しいかはともかく誰でも取り組める修行であることは間違いないです。 では、なぜそんなことをしなくてはいけないのか、それは、「人間の正義」というものがとても危ういものだからです。 東山寺では、今年よりホームページをリニューアルしました。ネットの世界で気をつけなければいけないことは、言葉の使い方です。インターネットの世界には「正義の味方」がたくさんいて、少しでも表現にまずいところがあるといろいろなご指摘を受けることになります。そうでなくとも、自分とは異なる意見の人に対してとても厳しい人がいて、中には、相手が精神を病んでしまって、自ら命を絶つというような最悪の選択をしかねないところまで追いつめてしまう人までいるのです。彼らは、それが正義であると思えばこそ、そこまでするのです。正義は、時としてとても迷惑なものになるのです。 第二次世界大戦のときにフランスはドイツに占領されて、一時、ナチスドイツの領土となりました。多くのドイツの兵士がフランスで暮らすことになり、支配者という立場でフランス人と接することになりました。しかし、やがてドイツは敗北し、フランス人とドイツ人の立場は逆転します。侵略者であったドイツ人はフランス人からの激しい暴力にさらされて、命からがらドイツに逃げることになります。少なくない数のドイツ人が故郷にたどり着く前に命を落としたのだそうです。 そして、その暴力の矛先は、ドイツ人ばかりでなく、同じフランス人にも向けられました。戦時中、ドイツに協力的であった人たち、あるいは、ドイツ人の兵隊たちと親密な関係にあった女性たちなどです。 特にドイツの兵隊たちと近い関係にあった女性たちに対するフランス市民の私刑は、とてもショッキングな映像として残っていて、近年、NHKのドキュメンタリーでも放映されました。また、有名な戦場カメラマンロバート・キャパの写真の被写体にもなっています。どういうものかというと妙齢の女性の髪を丸刈りにして、顔にナチスの象徴である鍵十字を大きく描き、公衆の面前でさらしものにするという心の公開処刑とでも言うべきものです。藤森晶子さんという社会学の学者の方が、フランスで取材を行い、著書で、彼女たちの数奇な運命を紹介しておられるのですが、実に二万人の女性がこの憂き目にあったそうです。 経済的な援助を受けるためにドイツ兵と親密になった人、単純にドイツ兵と恋に落ちた人、半強制的にナチスの啓蒙(けいもう)活動に参加した人など、その関係性は様々だったそうです。忘れてはいけないのは、「自分たちは、正義の行いをしている」という思いからこのような蛮行(ばんこう)が行われたということです。しかし、映像や写真の中の、女性たちにそのような辱めを強要している人たちの姿は、もはや正義の味方には全く見えないというのは、とても残念なことです。 第二次大戦中にナチスドイツは、六百万人のユダヤの人たちを殺したと言われています。世界史上、類を見ない残酷な行為です。しかしその行いは決して悪の心から出たものではないということを知らなければなりません。少なくとも彼らは、それが正しいこと、正義であると考えていたからこそ、そこまで冷酷で残忍になれたと言えるでしょう。 そして、現在そのユダヤの人たちの国、イスラエルが戦争をしています。彼らの指導者もまた自分たちの戦争を「正義の戦争」だと言うのです。 人間は間違っていること、悪だと思っていることについては、それほど執着しないものです。我々が本当に気をつけなければいけないことは、実は悪の心ではなく、正義の心であるというわけです。 坐禅は、そういう偏った正義をはらんだ自分というものを反省しきる修行です。反省しきるとはまさに自分というものの一切を忘れ切るということです。忘れ切るとは自分という余計事をさしはさむことなくものごとに徹しきるということです。 本当にそこに徹しきることができたならば、「三世諸仏依般若波羅蜜多(さんぜしょぶつえはんにゃはらみた) 故得阿耨多羅三藐三菩提(こーとくあのくたらさんみゃくさんぼだい)」とあるように過去、現在、未来の諸仏とは、まさに自分という一つの宇宙のことであったと知ることになります。かりそめの自分がなければ、すべては一つのもの、自分の様子なのです。一つのものなので、くらべるところがないのです。くらべるところがないので競争がありません。そして、争いのタネもないのです。それは、理屈を超えて、本当の平等とは何かを知ることであり、本当の自由とは何かということを知ることなのです。
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