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~14,花無心招蝶(はなはむしんにちょうをまねく)~

  • 住職
  • 17 hours ago
  • 5 min read

~花無心招蝶~

花無心招蝶 花は蝶を招くのに心無く

蝶無心尋花 蝶は花を尋ねるに心無し

花開時蝶来 花開く時蝶来たり

蝶来時花開 蝶来たる時花開く

吾亦不知人 われもまた人を知らず

人亦不知吾 人もまたわれを知らず

不知従帝則 知らずして、帝の則に従う

 

花に蝶を招き寄せる心があるわけでもなく

蝶に花を尋ねる心があるわけでもない

花が開く時、蝶が来るし、

蝶が来る時、花が開く

私は、他の人のことは知らないし

他の人も私のことを知らない

お互いに知らないながら、大自然の大道に従っているのだ

参考文献 東郷豊治 「良寛詩集」創元社

 

 これは、新潟の禅僧良寛(りょうかん)和尚の漢詩です。


 我々人間は、ものごとに名前をつけて、それに理由や法則のようなものを見つけようとする性質がありますが、それらは全て「つくりもの」であり、そういうものは、本来、どこにも見当たりません。それが、つまり心が無いということです。それでも花が開くころにちゃんと蝶はやってくるし、蝶が来る頃にきちんと花が開くのです。同じように自分は他の人の心を知らないし、他の人も自分の心を知らないけれど、それでもこの大自然、宇宙はなんの支障もなく動いているということです。

 詩の最後の句に「帝の則」とありますが、帝とは、中国古代の伝説の名君(めいくん)「堯帝(ぎょうてい)」のことで、堯帝がある時、自分の治世において領民たちがどのように暮らしているか自分の家臣に聞いてみたけれど、だれも答えてくれないので、お忍びで農村部を尋ねたところ、農民は自分の国の君主が誰であるかもよくわかないまま平和に暮らしていることを知ったという逸話を引用しているようです。

 君主のことを忘れるくらいに政治に不満がなかったということです。


 良寛がいつでもどこでも日常のものごとに自分という余計事を挿しはさない修行していたことを物語る漢詩です。そして、それがまさに坐禅であり、仏教なのです。

寒くて、暗いところで座っていることばかりが坐禅であるというのは大きな間違いです。坐禅とは日常の生活のどの部分を切り取っても成立するものなのです。


 金剛般若経(こんごうはんにゃきょう)という経文に「如露亦如雷(にょろやくにょでん)応作是如観(おうさにょぜかん)」という一説があります。この世の全てのものごとのはたらきは、朝日の前の露や雷のイナヅマや雷鳴のようなもの、一瞬の出来事で後には何も残らない。そのようにものごとを見なければいけない」というような意味です。


 戦国武将大内義隆は、家臣の裏切りにあって、追いつめられて大寧寺という寺にこもり、そこを敵に囲まれてしまいます。いよいよ最後というときに「討(う)つ人も 討たるる人ももろともに 如露亦如雷 応作是如観」という辞世の句を詠みます。金剛般若経の文言の意味に従えば、「私を滅ぼしに来た敵のはたらき、そして滅ぼされようとしている私のはたらき、それらは、朝日の前の露のようなもの、雷の音や光のようなもの、一瞬の出来事で後には何も残らない。私を殺しに来た者の罪も、殺されようとしている私の恨みも残らない。これでいい、こういうふうにものごとを見なければいけない」と意味になります。

 文学の人や、歴史学の人は、もしかしたら、この世のむなしさ、はかなさを歌ったと解説するかもしれませんが、経文の本来の意味から考えるとなんとも戦国武将らしい潔い歌ともとれます。


 先代住職がよく話していた良寛和尚のエピソードがあります。

 良寛和尚が、月夜の晩に月を愛でながらそぞろ歩いていると、いきなり後ろから誰かにつかまれて、地面に引き倒されてしまいます。そして、ぽかぽかと殴られてしまうのです。しばらく殴られているままになっていたのですが、やがて殴っていた方が自分が殴っている相手が良寛和尚であることに気が付きます。実は良寛和尚を殴ったのは村人たちで、芋泥棒が出るので見張っていて、月明かりにさっそく怪しい人影を見つけて懲らしめたところ、人違いで良寛和尚であったというわけです。村人たちは良寛和尚を引き起こすと良寛和尚に「ひどいことをしてしまった」と謝ります。ところが良寛和尚は「討つ人も 討たるる人ももろともに 如露亦如雷 応作是如観」という大内義隆の辞世の句を言います。「自分を殴った村人のはたらき、殴られた自分のはたらき、一瞬の出来事で後には何も残らない。殴った人の罪も残らなければ、殴られた自分の恨みも残らない。だから気にしないでね」というわけです。そして、逆に夜中にふらふらと歩いている自分の方こそまぎらわしかったと誤ったということです。


 人間は感情の生き物です。感情があるからこそ、文学や、音楽、絵画、はたまた、映画とか漫画というような芸術が生まれ、それを楽しむことが出来るようになりました。しかし、そういうものをいつまでも持ち続けていると、それが悩みのタネ、迷いのタネ、そして戦争のタネになったりします。

 楽しいからといってゲームばっかりしていては生活が成り立ちません。悲しい気持ちから離れなられないと心の病になるかもしれません。怒りの気持ちを持ち続ければ、ケンカのタネや戦争のタネになるのです。そういうものは全て一つの「もと」から生まれています。「もと」とは、「自分」のことです。そういう「もと」を一度でもいいので、きれいさっぱり手放してから、ものごとを見るの必要があるのです。そして、それを実践する修行がつまりは坐禅なのです。



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