~13,日面仏月面仏(にちめんぶつ がちめんぶつ)~住職5 days ago5 min readUpdated: 3 hours ago 中国は唐の時代に活躍した馬祖道一(ばそとういつ)という禅僧が死の病の床にある時に弟子の一人が「ご様子はいかがですか」と見舞にやってきます。すると馬祖道一は、「日面仏(にちめんぶつ)。月面仏(がちめんぶつ)。」と答えます。日面仏も月面仏も三千仏経に登場する仏さまのことで日面仏は非常に長生きで千八百年生きると言われており、逆に月面仏は、とても短命な仏さまでその寿命は一日一夜と言われているそうです。馬祖道一は、死の病の床にあってとても長生きの仏さまの名前ととても短命な仏様の名前をあげたのです。 「親より先に死ぬことは最大の親不孝だ」とおっしゃる方がおられます。言葉の使い方にとても神経質な現代にあっては、このような言い方に対して何か意見をしてくる人がいるかもしれませんが、そんなふうに思ったとしても仕方のない場合もたくさんあると思います。 家族の誰かが亡くなること、親しくしていた人が亡くなることは、我々に大きな苦痛をもたらします。そういうことを克服するのにとても時間がかかったり、時にはお医者様の力を借りたりする方もいらっしゃいます。だからこそ、生きることはいいこと、死は悪いことと考えるのは自然なことだと思います。 しかし、たとえ我々が死に対してそのような考えをもったとしても、長寿こそ、すばらしくめでたいことで、短命は不幸なことというふうにはならないのです。 そもそも死はいいものでも悪いものでありません。また生きることも同様にいいものでも悪いものでもありません。それどころか生き死にというものは人間の作り出した観念であり、もともとあったものではありません。さらに、そういうことを判断する「私」というものがそもそも「かりそめ」のもので実体のないものです。ですので、命の長短、あるいは生き死にそのものが実体のないもので、この世界、宇宙の絶対的な法則などではないということです。 「そんなわけない」とおっしゃる方も多いと思いますが、日本で最もよく知られているお経の一つ、般若心経には、まさしくこのようなことがこと細かに書いてあります。そして「こういうことを知る」というよりは「こういうことに納得する」ことが仏教の修行なのです。 どんな修行かというと、一度でいいので、自分というものを捨てきってものを見るという修行です。捨てきるというよりは、もともとそういう自分がないということを知るということかもしれません。あるいは、自分が目の前のことそれっきりしかないということを知る修行です。そして、それがまさに坐禅なのです。 では、なぜそんなことをしなくてはならないかというと、一つには、自分がさらなる「厳しい修行をしないため」と言うことができます。また、自分の家族や友人にそういう「厳しい修行」させないためであるということもできます。 たとえば、次の話は、はジャーナリストの有田芳生さんの著書に書かれているある方の人生の一部です。 その方は、ご両親とお兄さんと妹さんの三人兄妹のご家庭で育ったのですが、高校生の時に、その方のお父さんが仕事のストレスからうつ病になって自ら命を絶ってしまいます。それでも残された遺産や保険金があり、生活やその方の兄妹の進学までなんとかなりそうでした。ところが、自分の夫が自殺したというショックからお母さんがある宗教にのめりこみ、そのお金をその宗教団体に次から次へと寄付してしまいます。とうとう自宅まで売り払ってしまうのです。家族は崩壊状態となり、その方はとても成績優秀だったのですが、進学を諦めて生活のために就職しなくてはなりませんでした。働くことは決して悪いことではないのですが、その方は自分の人生のこと、自分の家族のことを悲観して、父親と同じように自ら命を絶とうとしたのです。毒をあおったのです。三日ほど生死の境をさまよいますが、さいわいにも一命は取り留めます。しかし、お母さんは、その方がそんなに大変なことになっているのに、遠いところで開かれている宗教の集会に出ていて、一向に帰ってこようとはしないのです。 この方の生活はまさに難行苦行の連続です。 日常生活の全てが修行であり、坐禅であるということは禅宗の教えるところです。そうでないと坐禅なんてものは何の役にもたたないからです。しかし、それは必ずしも難行苦行である必要はありません。お釈迦様は難行苦行を否定しております。 ただでさえ、人生はたいへんな修行です。そこにさらなる苦行を重ねる必要はないということです。そういうものを寄せ付けないための仏教なのです。そういうものから離れきるための坐禅なのです。 坐禅とは、生きることに納得する修行であり、そして、死ぬことに納得する修行なのです。そうしないと生き死にに余計ごとがくっついてきて、それがそのまま悩みのタネ、迷いのタネ、そして争いのタネになってしまうのです。一度でもいいのでそういうものから離れ切ってものごとを見る必要があるのです。 ちなみに千八百年生きる仏様「日面仏」も一日一夜しか生きない「月面仏」も現実に存在します。どこか遠くの神秘的な世界の話ではないのです。私も住職になって十五年経ちますが、生まれてすぐに亡くなったお子さんのお葬式に何度か出会ったことがあります。まさにそのお子さんが「月面仏」です。私たちの目の前に現れたのはほんのわずかの時間でしかないかもしれないけれど、その短い間にこの世界の全てを体現して教えて下さる尊い仏様なのです。そして、千八百年生きる仏様「日面仏」は、鹿児島県の屋久島にある屋久杉です。何千年も生きる壮大で荘厳な仏さまです。 私たちは、いつでもどこでも仏の有り様のど真ん中です。生きていても仏、死んでも仏なのです。そういうことに気が付くことをいわゆる成仏なのです。それでもう最初から救われていることに気が付くのです。成仏とは死ぬことではないのです。また、死んでから訪れることでもないのです。
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