~16,青林死蛇(せいりんしじゃ)~住職5 days ago6 min read 中国の禅僧・青林師虔(せいりんしげん)のところに修行僧がやってきて「修行の道とはどんな道ですか」と質問します。すると青林和尚は「道の真ん中に毒蛇が横たわっているので気をつけなさい。嚙まれたら死にますよ」と言います。修行僧は「その毒蛇をよけて通れますか」と聞きます。すると青林は「よけて通ることはできません。また逃げることもできません」と答えます。 毒蛇は、噛まれたら死んでしまうし、よけても通れない。逃げることもできない。では、どうしたらよいのか。この毒蛇をどうするかというのが修行の課題です。 東山寺の坐禅に来る人でよく「気持ちよく座れました」という人がいます。結構なことだとは思いますが、それでは残念ながら修行にはなりません。課題が必要なのです。課題とはここで言うところの毒蛇のことです。この毒蛇とは皆さんがそれこそが「自分」であると思っているもののことです。そして、その「自分」とは、皆さんがものごとを認識して、それに名前をつけるところから始まるのです。 昭和の禅僧井上義衍(いのうえぎえん)は、物でも人でも、生物でも無生物でも、それを見て、「なに!」と思う前のところを修行しないといけないと言っています。そして、「なに!」という念が起きる前のところが本来の自己なのです。「なに!」と思う前は全てのものごとが一つのものなのです。一つのものなので理由や理屈が付きません。理屈がないので、比較がありません。比較がないので善悪もないし、優劣をつけることもできないのです。貧富の差も、美醜も、更に生き死にも神も仏もありません。しかし、だからこそ、「なに!」と思う前は、限りなく平等で、限りなく自由なので、完全に救われているのです。そういう元々のところに気が付くことが坐禅というわけなのです。 ちなみに、この「なに!」は、ものごとに名前をつける前のところです。 私たちは、ものごとに名前をつけます。そして、それが何なのかを考え始めます。その考えは、人間の社会では便利なものかもしれませんが、それは同時に悩みのタネ、迷いのタネ、争いのタネを生み出します。 例えば、高校の世界史の教科書には、必ず、アメリカにおける黒人差別の歴史が載っています。また、日本でも多くの方がそういう歴史があったということを認識しておられると思います。 アフリカ系アメリカ人のほとんどの人が十七世紀から十九世紀にかけて強制的に連れてこられたいわゆる黒人奴隷の子孫です。アフリカ大陸で奴隷狩りにあって、劣悪で過酷な航海を経て、強制的に農園などで厳しい労働をさせられた人たちの子孫なのです。その黒人の人々は、公民権運動などに代表される長くて、困難で、膨大な努力を必要とする人権活動を経て、ようやくアメリカの一般の市民として認められるようになりました。 1957年アーカンソー州の州都リトルロックのセントラル高校に九人の初めての黒人の生徒が入学することになりました。その入学の日に、黒人の生徒の入学に反対する多くの白人たちが押し寄せ、学校に入ることを妨害しようとしました。アーカンソー州の州知事までがそういう白人たちの味方をして、州兵に命令して、九人の黒人の生徒たちが学校に入ることを妨げたそうです。 当時のアメリカ大統領アイゼンハワーが、連邦軍の兵士や空挺部隊まで派遣して、護衛させてようやく九人の生徒は、学校の中に入れたそうです。入学後もその九人の生徒たちは、様々な差別、いやがらせ、いじめを受けることになりますが、ついにそのうちの一人が学業を終えて見事卒業するのです。 ただ学校に通うだけなのに、軍隊まで派遣しなくてはならないなんてことは、現代の日本では到底考えられないことです。しかし、たかだか数十年前の、世界一の先進国であるはずのアメリカでこんなことが起きていたのです。自由の国の恥ずべき歴史の一部です。 このようなセントラル高校での騒動は、メディアに取り上げられて、世界中に報道され、多くの人の批判の的になりました。九人の生徒の内の一人、エリザベス・エクスフォードという女子生徒は、後ろからヘイゼル・ブライアンという白人の女子生徒に罵られる写真を記者に撮られ、それが有名な雑誌に載りました。 エリザベスは人種によらない教育の平等性を訴える象徴的な存在になりましたが、ヘイゼルは、その写真のために差別主義者の象徴的な存在にされてしまいました。 ヘイゼル・ブライアンは、後に自分の行為を恥じ、激しく後悔します。そして、六年後に人を介してエリザベスと連絡を取り、謝罪して、一緒に人種問題をなくす活動に参加することになります。 入学の初日に、黒人、白人によらない教育を訴える支援者の中で、差別主義者に混ざって激しくののしる生徒たちに「半年もしたら、恥ずかしくて顔も上げられなくなる」と声を上げた女性がいたそうです。まさにそういうことがヘイゼル・ブライアンに起きたのです。 歴史学の人は、おそらく、このセントラル高校の出来事を黒人と白人の様々な歴史的背景から語ることと思います。しかし、仏教的に語れば、このような騒動の発端は「黒人が白人と同じ学校で勉強するなんて許せない」という妄念です。その一念は、世界中が注目するような事件を引き起こしてしまいます。しかし、どう考えてもその一念には根拠が全くないのです。 アフリカ系アメリカ人の人たちは、自分の意志に反して、アメリカに連れてこられて、まったく意にそぐわない過酷な労働をさせられてきました。歴史的には、間違いなく純粋な被害者です。むしろ、それに対する償いをするべきところを、このような根拠のない仕打ちをしたのです。そして、その根拠のないところで、被害者ばかりでなく、加害者も含め、多くの人の身と心が傷つけられたのです。 井上義衍老師の言うところの人がものを認識して「なに!」と思うことは、いろいろなものの元になります。いいものの元になればいいのですが、争いや戦争の原因にもなるのです。アメリカの高校のお話は海の向こうの話だと思われるかもしれませんが、私たちもこういう差別の元になるものを持っていることを忘れてはなりません。こんなことを書いている私にももちろんあります。 学校や職場などで深刻なイジメの問題が起きてしまうのは、まさにそういう「自分」が原因なのです。人種差別と全く変わらない心理に基づいているというわけです。 まさに毒蛇なのです。 そういう元を全部反省しきって手放すことがつまりは坐禅なのです。ただし、反省すると言ってもそういう感情を持つ自分を否定するわけではないのです。そういう感情を抱く自分も、否定する自分も同じ元から生まれているのです。その元から一度、自分を否定も肯定もせずにすっかり離れ切るということです。それが「なに!」と思う前のところを修行するといことです。そういうことがよくわかると、青林和尚の言うところの「毒蛇」を退治することができるのです。
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