~15,出家~
- 住職
- 4 days ago
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「出家」とは、文字通り家から出ることです。仏道というものは、本来、仕事ではないので、家族を養えるような収入を得られるようなものではありません。ですので、かつては、僧侶でありながら家族を持つなんてことは到底考えられないことでした。しかし、近年では、お檀家の皆様や志のある方々からのお支えと理解があり、僧侶でありながら、家族を持つことが可能となりました。家族を持つことが修行の妨げになるということはありませんが、その恵まれた立場に甘えないということが肝心だと思っております。
家族は、社会的に見ても、わたしたち一人一人にとってもとても重要なものです。成人する前の子供にとっては、家族は生活の最も大きな要素だと思います。また、家族があればこそ、お父さんも、お母さんも、あるいはおじいさんもおばあさんも外での仕事に力が入りますし、家事を頑張ろうと思うわけです。さらに、病気になった時など、家族がいて本当によかったと思わずにいられません。
しかし、世の中には、あえて結婚しない人、また結婚したいけれど、いろいろな事情で結婚に至らない人がいます。確かに、一人でいることは寂しいものですが、一人でいる方には、一人でいる事情があるものです。「結婚しないと一人前でない」という風潮が日本にはまだ色濃くあると思います。日本の少子化のことを考えると結婚の意思のある若い方々には、家庭を築いてほしいところではありますが、それは、強要されるものではないですし、家庭を持たなかったからといって、独り立ちしている大人の方を半人前扱いするとしたら、それはとんでもない勘違いです。そういう考えを捨てきることがまさに仏教の修行なのです。
出家とは確かに家から出ることなのですが、それだけでは意味がありません。自分という「家」からもすっかり出てしまうことが肝要なのです。それが出来て初めてものごとを本当に平等に見ることが出来るのです。仏教の言葉でそれを「平等性智(びょうどうしょうち)」と言います。
ものごとを本当に平らかに見るので、家族を持つことが「良いものでも悪いものでもない」と言うのです。同様に一人で暮らすことも「良いものでも悪いものでもない」と言います。比較をしないのです。というよりすべてのものごとが比較できないことを知るのが仏教なのです。
比較がないことを本当に知ると、劣等感を抱いて引け目を感じることもないですし、嫌みな自慢をして人からひんしゅくを買うこともありません。
何年か前に、お檀家の方から一周忌の法事を依頼されて、車で迎えに来てもらうことがありました。準備を整えて待っていると遠くから重厚なエンジンの音が聞こえてきました。そして、お寺の駐車場にGTRというスポーツカーが入ってきたのです。中から50代後半くらいの男性が出てきて、「迎えに来ました」と言うわけです。その男性は施主さんの弟さんでした。そんな車で迎えていただいたのは、もちろん初めてで、おどろいたのですが、とにかく、わたしはその助手席に乗って施主さんのお宅へ行くことになりました。
さて、初めて乗ったスポーツカーに興奮して、わたしは、「どれくらいのスピードが出るのか」とか、「馬力はどれくらいあるのか」とか、いろいろと質問してしまいました。そして、「よく奥さんがこの車を買うことを許してくれましたね」とちょっと余計なことを聞いてしまったのです。するとその方は「オレ、独身なんだ。だから、こういうことに好きなだけお金を使える」と笑って話してくださいました。
法事は滞りなく終わり、帰りも同じ車で送ってもらったのですが、わたしは「来年の三回忌もこの車でお迎えをお願いします」とずうずうしくも言いました。するとその方は「わかりました」と笑顔でおっしゃいました。
そして、三回忌の日になり、わたしはまたあの車で迎えに来てもらえると思い、わくわくしながら待っていました。しかし、いつまでたってもあの重厚なエンジン音は聞こえてこなくて、かわりに一台の銀色の軽のワゴン車がお寺の駐車場に止まり、中から去年と同じ方が出てきて「迎えに来ました」と言いました。
わたしは、その車に乗り込むと「あのスポーツカーはどうしたのですか?」と早速質問してしまいました。すると「あの車は、売ったんだ。今は車ではなくて釣りにはまっていて、今度伊豆七島にマグロ釣りに行くんだ」と言いました。
法事が終わってお寺に送ってもらった時に、わたしは「今度釣れた魚の写真を見せて下さい」と言いました。すると「では、七回忌の時に」と笑顔でおっしゃられたのです。
さすがに七回忌までは時間があったのですが、その方との再会は七回忌の前になりました。その方の「ご遺骨」と再会したのです。その方は静岡で一人暮らしをしていたのですが、アパートで、お一人で亡くなっているところをご友人の方が見つけたのだそうです。ご遺体は、静岡で荼毘に伏され、ご遺骨となって新潟に戻り、お葬式を上げることになりました。
お葬式が終わった後、その方のお兄さんは「弟は独り者で、好きなことばっかりやっていたけれど、決して悪くない人生だった」とおっしゃいました。
もちろん、こういう人生もあってしかるべきです。
家族に見守られる死が「良いものでも悪いものでもない」のと同様、一人で死ぬことも「良いものでも悪いものでも」ありません。そういうことについて、霊が出るなんて騒いだりすることはとても失礼なことです。また、そのようなことの延長線上で、一人暮らしのお年寄りの方が、お部屋を借りられなくなるようなことこそが、よほど悪いことです。たしかに、ご遺体が長い間放置されてしまうのは問題ですが、それについては、きっとうまい解決方法があるはずです。
「出家」とは、単に家を出ることではなく、ものごとに優劣をつけて、誰かを置き去りにすることを正当化するような考え、あるいはそういう自分自身というものからいったん離れ切ることとも言うことができます。それから、ものごとをあらためて見るのです。そういうことが出家であり、そして坐禅なのです。難しいか簡単かはともかく、それは、家族があってもなくてもできることです。そして、本当にそういうものから離れ切ることができますとこの世界、この宇宙全体こそが家族であることがわかるのです。



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