~22,仏道といふは~住職1 day ago5 min readUpdated: 21 hours ago 仏道といふは自己を習ふことなり 自己を習ふとは自己を忘るることなり 自己を忘るるとは万法に証せらるることなり 万法に証せらるるとは自己の身心をして、他己の身心を脱落せしむるものなり これは、永平寺をお開きなった道元禅師が「正法眼蔵・現成考案の巻」でお示しになられた有名な一節です。 ~仏道といふは自己を習ふことなり~ 仏教の修行というものは、己に対してするものであり、本を読んだり、学校の勉強をしたりして、身につけるというようなものではありません。すでに身につけるべきものは、足すところも引くところもなく身についているし、あるべきものは、離れがたく自分に付き従っているのです。どなたにでも修行の道が開かれているということです。~自己を習ふとは自己を忘るることなり~ その自分というものを今度は徹底的に忘れ切るのです。別の言い方をすれば、そういう自分がどこをどう探してもないということを知るのです。 どうやって自分を忘れ切るかというと「清水の舞台から飛び降りる」という表現がぴったりくるのではないでしょうか。 わたしはかつて若かりし頃、一度だけバンジージャンプというものをしたことがあります。太くて長いゴムのひもをつけて高いところから飛び降りるバンジージャンプです。度胸試しに、友人たちの前で五十メートルほどの高さから飛び降りました。 その時、わたしより一つ前の順番の若い女性の方が、恐怖のあまり係員さんの「三、二、一、ゼロ」の声のタイミングでジャンプできなかったのを目撃したところ、それまであまり怖さを感じていなかったのが、その光景を見た瞬間に急に自分も怖くなってしまったのです。 すると、いろんな心配事が自分の頭のなかにやってきました。 「自分も、あんな風に、一発で飛べないかもしれない。彼女は、若い女の子で、ためらうしぐさもかわいいかもしれないが、男の自分が飛べなかったら、きっと、みっともない。友人たちは、きっと、そのことをネタにして自分を笑うかもしれない」とか、「ゴムが切れたらどうしよう」とか、 「いっそやめてしまおうか」とか、いろんな考えが湧いてきたのです。 前の順番の、その若い女性は、係員の方の三回目の合図で、なんとか飛ぶことができました。そして、いよいよ自分の番になりました。下方をのぞくと下の渓流まではびっくりするような高さです。 わたしが手すりの端っこの部分をなかなか離せずにいると係員の方が「離しましょう」と優しい声で言います。 そして、その手を離した瞬間に急に周りの景色がわたしの眼に飛び込んでいきました。その景色がとてもきれいだったのを覚えています。 そして、「三、二、一、ゼロ」の合図で飛び降りたのです。それは、ためらいの気持ちがあり、決してかっこいいジャンプではなかったのですが、それまでの、怖気づいた気持ちを全部振り切ってのジャンプでした。そうしないと、たぶん飛べなかったと思います。 落下の瞬間は、怖さに打ち勝つためだったと思いますが、自然と悲鳴にも似た大きな声が出ました。しかし、それは、思った以上に気持ちいい瞬間でもありました。ちょっと病みつきになりそうなスリルと爽快感がありました。のですが、その後、またバンジージャンプをやるという機会はまだありません(笑)。 この「気持ちを振り切る」というところが「自分を忘れる」ということによく似ています。 なぜ、自分を忘れ切る必要があるのかというと、人間は、自分が悪いと思っていることは簡単に手放せるのですが、「自分が正しいと思っていること」、「信念のようなもの」、「正義のようなもの」は、なかなか手放せません。 しかし、その正義は、大まかには皆さんだいたい同じなのですが、人それぞれ微妙に異なるのです。そして、その微妙に異なることが、誤解の原因だったり、仲たがいの原因になったり、ケンカの原因になったり、時として戦争の原因になったりするのです。だから、一度でいいので、そのすべてを捨てきって、争いの元をきちんと見極める必要があるということです。執着があると、なかなかそれができないのです。 そして、「自分を忘れる」ということは、この世界、宇宙を忘れるということです。本当に忘れたならば、心も身体もなければ、善悪もない、きれい汚いもない、広いわけでもなければ狭いわけでもない。過去もなければ、現在もなければ、未来もない。あなたとわたしと彼と彼女と、そのどれでもない。生き死にもないということになるのです。~自己を忘るるとは万法に証さらるることなり~ 宇宙とわたしを隔てていた壁もないので、自分とは宇宙です。 「そんなばかな」と思われるかもしれませんが、それが禅の結論なのです。 それは、宇宙はすべて自分のものであると傲慢になることではありません。公界(くがい)という言葉があります。この身はすべて公(おおやけ)という意味です。 ちょうどラグビーのチームの方針の「ワン・フォア・オール。オール・フォア・ワン」です。一人はみんなのために、みんなは一人のためにです。 人と人が仲良くするばかりでなく、自分をとりまく環境のすべてと、生物、無生物にかかわらず仲良くなるということです。戦争、貧富の差、環境問題など、人類が抱える問題の解決方針に実に正しく沿った結論だといえます。そして、それがわたしたちの本来であるというわけです。 ~万法に証せらるるとは自己の身心をして、他己の身心を脱落せしむるものなり~ 故に「悟り」とは、自分という宇宙が抜け落ちることです。 坐禅とは、寒くて暗いところでする難行苦行ではありません。自分というものの足元を本当にしっかりと見極めると、宇宙が開けるという、なんとも奇妙でありながら、不思議で、興味深い、ある種のロマンにあふれた活動なのです。
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