~23,青原米価(せいげんべいか)~住職2 hours ago5 min read お釈迦様がおっしゃった、「翳人(えいじん...かげりのある眼を持つ人)の空中の華(はな)を見るが如(ごと)し、翳病(えいびょう)除(のぞ)こほれば、華(はな)空(くう)に滅す」という言葉があります。これは、「かげりのある眼を持つ人は、空中にあらぬ花を見る。もし、その眼のかげりの病を取り除けば、そのあらぬ花は滅する」というふうに読むこともできます。 しかし、道元禅師は、そういうふうに解釈することは、間違いであるとおしゃっています。 むしろ、私たちは、誰しもが「かげり」のある眼を持っている翳人(えいじん)で、その「かげり」がある眼で見たもの、そのものを「空華(くうげ)」とし、それを修行して、その一切が仏であると知るべきだとおっしゃっています。 わたしたちは、五感(視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚)あるいは六根(眼、耳、鼻、舌、身、意)をつかって、いろんなものを認識しています。それは、だれもが同じ認識であると思われがちですが、人によって少しずつ違います。 たとえば、同じものを見るにしても、視力がとても良い人もいれば、メガネやコンタクトレンズを使って、ものを見ている人もいます。目で、ものごとを認識することが難しくて、耳や、嗅覚、手足を使って、目の働きを補っている人もいます。 そして、例え同じものを見ていても、頭の中では違うものを思い描いていたりします。 道元禅師によれば、それらは、みな「かげりのある眼」「翳眼(えいげん)」なのです。 「かげりのある眼」と、いうと、あまりよくないもののようですが、誰しもが、かげりの眼であるというところが重要なのです。 17世紀の物理学者、アイザック・ニュートンは、物と物との間には、「引き付けあう力がある」として、万有引力の法則を提唱しました。 しかし、1915年にアインシュタインが一般相対性理論で、「引き付けあっているのではなく、時空の歪みにそって進んでいる」ということを提唱し、実際にそれを証明する現象が観測されました。 そのアインシュタインは、「宇宙は一定の大きさである」ということを信じて自分の論理に宇宙を一定に保つための式を書き足したのですが、エドウィン・ハッブルという天文学者が、宇宙が膨張していることを実際の観測で示しました。 そして、現在、その宇宙の膨張のエネルギーは、なんのなのか、ということを、世界中の天才が研究していますが、未だ、その問題に対する有効な答えは、見つかっていません。 ニュートンも、アインシュタインも、ハッブルも歴史に名をのこす偉大な天才たちですが、彼らですら、間違えたり、わからないことがたくさんあったりするのです。つまり、彼らの眼も「かげりのある眼」であるということです。 それぞれが、それぞれの認識で、ものごとを見るのですが、自分が見えているものこそ、「絶対に正しい」と思うところで、人と意見がぶつかったり、ケンカになったり、時には戦争になったりします。 1572年に、フランスのパリで、サンバルテルミーの虐殺という有名な事件が起きました。それは、カトリックの信者と、ユグノーと呼ばれるプロテスタントの信者の争いでした。 同じキリスト教徒で、信仰の内容も、ほぼ同じなのですが、そのほんのわずかな違いで大喧嘩をしたのです。王族、貴族、そして市民を巻き込んだこの争いで死んだ人の数は、一万人とも二万人ともいわれています。 当時、プロテスタントと、カトリックの争いは、国家を揺るがす大問題でした。この事件の後に、アンリ四世という王様が即位しましたが、もともとプロテスタントのアンリ四世は、カトリックに改宗するなどして、プロテスタントとカトリックの間を取り持つために尽力します。 しかし、最終的には、熱心なカトリック教徒に暗殺されてしまいます。 宗教は、そもそも、平和をめざすものなのですが、「自分の信仰こそ正しい」と思うことが、人殺しの理由になってしまうのです。信仰の内容が素晴らしくても、人は、間違えるのです。それは、仏教もまた同じで、信仰の内容には関係ないのです。 人は、かならず、「かげりのある眼」で、ものを見るということです。それは、避けられないことです。問題は、それをどう扱うか、ということです。道元禅師は、それを修行しなければならない、とおっしゃっています。それは、見たものを「取り扱わない」という修行です。その修行のことを「不染汚(ふぜんな)」と言います。「不染汚」とは、徹底的にものごとに「さわらない」ということです。そして、それがつまり坐禅なのです。 中国の禅僧 青原行思(せいげんぎょうし671~740)は、修行僧に「仏法の大意とは何ですか」と聞かれて「盧陵(ろりょう...現在の江西省の米の産地)の米の値段はいくらだ」と言います。 仏法のことを聞いているのに、米の値段の話をしたのです。 しかし、それは、ごまかしでも、意地悪でもありません。青原は、まったく修行僧の質問に答えていないように思えて、実は、きちんと答えているのです。言葉はないのですが、「仏法の大意」と「米の値段」の間に、きちんと答えがあるのです。それが「不染汚」であり、「仏法」であり、「徹底的にさわらない」ということなのです。 わたしたちがものごとを見て「ん?」と思う前のところです。 それは、つまり人の思いが生まれる前のところです。そこを修行するわけです。そこには、善悪もなければ、きれい汚いもなければ、生き死にもありません。自分を縛るものがないので自由自在なのです。 人の思いは必ず間違えます。本当のところとは少し違うのです。しかし、その間違いは間違いであってもちゃんと日常の生活を送るには、十分、役に立っています。ただし、どこかで訂正しないと、そのまま悩みのタネ、迷いのタネ、争いのタネになります。ですので、一度徹底的にさわらずにものごとを見る必要があるのです。 すると「あいつも間違えているが、オレも間違えている」ということがよくわかるのです。それは、争いの元を絶つということでもあります。そして、間違いであることを知っていることにより、自分の思いを、自在に操ることができるようになるのです。それは、つまり、自由に笑って、上手に泣いて、ほどよく怒り、安心して生きて、安心して死んでいくということなのです。
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