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~8,但莫憎愛 洞然明白 (ただぞうあいなければ、とうねんとしてめいはくなり)~

  • 住職
  • Aug 1
  • 5 min read

Updated: Sep 1

「但(ただ)憎愛(ぞうあい)莫(な)ければ、洞然(とうねん)として明白(めいはく)なり」とは、中国に禅をお伝えになった達磨大師(だるまだいし)より三代目の僧璨大師(そうさんだいし)がお示しになった「信心銘(しんじんめい)」の冒頭部分の一説です。

 憎愛とは、ここでは、人の見解のことですが、善悪のことと言ったら分かりやすいと思います。善悪は、人間の社会においては欠かせない要素なのですが、もともとあったものではありません。人間が作り出したもので、人間の道具です。たとえて言うなら包丁のようなものです。上手に使えば、野菜も切れる、肉も切れる、魚も捌けますが、使い方を間違えると人を殺すこともできる、そういう代物です。


「但憎愛莫ければ、洞然として明白なり」とは、そういう人間の見解から一度でも離れ切ってみないとものごとが何事もはっきりしないと言っているのです。


 共産主義という考え方があります。

 共産主義とは、社会に生きる人たちが、すべて平等に生きることを目指した社会システムの考え方で、それ自体、善でも悪でもありません。しかし、それを善である、悪であるとするところにいろいろな問題が生じます。


 1966年から1976年まで、中国では文化大革命という時代がありました。文化大革命とは、簡単に言うと、共産主義は良いことなので徹底的にやろうという中国全土で行われた社会運動のことです。つまり、みんなで徹底的に平等になろうとしたわけです。その結果、どういうふうになったかといいますと、中国はたいへんな密告の社会になりました。

 少しでも贅沢をしている人、音楽や演劇のような娯楽に携わる職業の人などがことごとく密告されて、逮捕されて、収容所に送られたり、過酷な強制労働を課せられたりしました。自分の親までも密告する人がいたのだそうです。激しい暴力が横行して、多くの人が殺されたそうです。一説によると文化大革命の十年間に実に一千万人の犠牲者が出たと言われています。その数は、日本との戦争で死んだ人の数に匹敵するそうです。


 このことから考えるとどうやら共産主義を良いことだと考えることには、あまり良いことがないように思えます。

 しかし、逆の例もあります。

 共産主義を排除しようとした国々の代表はアメリカです。アメリカは自国の共産主義者を弾圧した歴史がありますが、自国ばかりでなく、他の国が共産主義になることにも反対でした。


 1970年代、チリには、アジェンデ政権という共産主義の政府がありました。アメリカは当時、このアジェンデ政権にいろいろな意地悪をしたのですが、最終的にピノチェトという軍人に肩入れをして、軍事クーデターを起こさせて、アジェンデ政権を崩壊させます。

 その後、ピノチェト政権という軍事独裁政権が生まれます。ピノチェト政権は、最初こそ自由経済のシステムを取り入れて、チリは少しだけお金持ちになるのですが、次第に貧富の格差が大きくなり、国民の不満が増え、やがて経済も立ち行かなくなります。各地で反政府運動が起きるようになるですが、軍人出身のピノチェトはそれを武力で弾圧します。多くの人が殺されたり、行方不明になったりしました。


 1973年に大統領になったピノチェトは、1988年に失脚しますが、病気の治療で訪れていたイギリスで逮捕されて、自国内でスペインの人を殺した疑いで、スペインで裁判にかけられます。さらにチリに帰国後、2000年代にチリ国内でも裁判にかけられます。罪状は、殺人罪、誘拐罪などですが、実に3000人を超える人が殺されたと言われております。行方不明の人のことを考えると、さらに数が増えると言われています。しかし、当時ピノチェトは認知症の症状があり、裁判は進まず、2006年に判決が出る前に死去します。


 このようなチリの政治的、経済的な大混乱は、もちろん、ピノチェトという独裁者が招いたことではありますが、共産主義を毛嫌いする理由から、それを後押しした大国アメリカの責任は決して小さくありません。


 善悪の観念は本来、社会の秩序を維持するためのもののはずですが、それは、社会に大きな混乱をもたらす理由にもなります。最初に申しましたが、善悪というものはもともと自然界にあったものではありません。人間が作り出したものなので、必ずほころびがあるということを知っておく必要があります。


 そして、そういうものは、善悪だけではないのです。二つに分けて比較するものの考え方は、全て人間が作り出したものなのです。「きれい」「きたない」、「優」「劣」、「おいしい」「まずい」などがそうです。「生きる」「死ぬ」の観念も実は人が作り出したものです。だから般若心経では「不生不滅(生まれず、滅せず)」と言うのです。こんなふうに二つに分けられるもの全てが「但憎愛莫ければ、洞然として明白なり」の「憎愛」なのです。人間にとっては、便利な判断の基準かもしれませんが、同時に悩みや争いのタネとなります。それらが、厄介ごとをもたらさないように、我々は、本当はどこにもそういうものがなかったということをはっきりさせておく必要があります。それは、勉強や知識を蓄えることではどうにもなりません。むしろ、そういう人間の見解を全部捨てきってものを見る必要があるということです。

 

 そして、それらを捨てきることがつまり坐禅なのです。本当にそういうものを一度でも捨てきってきちんと全てを見ることができると、人間の「道具」がきちんと道具として使える本来の自己というものに出会えるのです。

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