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~11,田んぼにイネを植えること~

  • 住職
  • Nov 1
  • 6 min read

 中国は唐の時代の末期に活躍した禅僧、地蔵桂琛(じぞうけいしん)和尚のところに旅の修行僧がやってきます。桂琛和尚は、地蔵院(じぞういん)というお寺の住職なので、地蔵桂琛と呼ばれていました。桂琛和尚は、修行僧にどこから来たのかと質問します。修行僧は南方から来たと答えます。桂琛和尚が「南方は仏教が盛んだと聞いているがどんな様子なのか」と聞くと修行僧は「僧侶の間で議論がさかんに行われ、その理解を一層深めている」と答えます。桂琛和尚は、「そのようなことは、この近所で田圃にイネを植えて収穫して、それを握り飯にして食べることに全く及ばない」と答えます。修行僧は、「そんなことで、迷いや悩みのタネとなる三毒(人の欲や、美醜の観念、頑迷さ)をなんとかできるのか」と言います。すると桂琛和尚は、「そもそも何を示して三毒なのか。最初からそんなものは影も形もない」と言います。

 これは、言葉や観念といったものから離れ切らないと仏の教えはわからないというお話です。


 言葉は、人類にとって最大の武器であると言ってもいいかもしれません。人類の発展にとって言葉はとても重要なものであったということは学校の教科書にも書いてあることです。しかし、言葉は、万能ではありません。現実のものごとの全てがこの言葉を越えたところで起きていることをよく理解しないといけないということです。そうしないと言葉が独り歩きをしてしまい、それが迷いや、悩みや、争いのタネとなってしまうということです。

 私たち人間はよく「進化」とか「進歩」という言葉を使います。しかし、現実には、「進化」も「進歩」も存在しません。それは、人間の頭の中にだけ存在するあいまいな何かでしかないということです。けれども、そのあいまいな"何か"が人間はとても大好きで、時折くるったようにそれを追いかけようとしてしまいます。


 理学博士の中村桂子さんは、「人類はどこで間違えたのか」というタイトルの著書の中で幾人かの歴史学者の言葉を引用しながら、狩猟採集をしていたころの太古の人類について興味深いことを言っておられます。それは、狩猟採集をしていたころの人間は、現代人よりもずっと時間に余裕があったということ、そして、仲間と語り合ったり、芸術を楽しんだりして、現代の人間が考えるよりもはるかに豊かな精神的世界があったかもしれないということです。

 また、中村さんは、人類は農耕という食糧生産の方法を選択したところから労働時間がどんどん長くなったと言います。やがて私たちは、働くことこそ美徳と考えるようになり、その長い長い労働時間は現代も解消されていないというわけです。


 20世紀初頭、機械による産業が本格的になってきた時、人々は、これで厳しい労働から解放されると思ったそうです。しかし、実際には、さらなる長時間労働を課せられる世の中となり、それは現在も続いているのは、皆さんもご存知の通りです。人類は、機械を「楽をする」ためにではなく、「お金儲けをする」ために使ったため、よりいっそう働かなくてはならなくなったのです。


 映画監督の大林宣彦さんは、ご自身のエッセイの中で、フィルムの編集は撮影と同じくらい手間のかかる作業であることを話しておられました。とにかくとても時間がかかるそうなのです。しかし、ある時からその作業がコンピュータでできるようになり、今までの3分の1ほどの時間でできるようになったのだそうです。大林宣彦監督は、最初、時間に余裕ができて、家族と過ごしたり、次の映画の構想を練ったりできるようになると考えたのですが、実際は、便利になった分さらに仕事が入るようになり、自分の時間を作るどころかもっと忙しくなってしまったとのことです。

 人類は、せっかく生み出した便利なものを豊かな生活のためにではなく、競争のために使ったと言っても過言ではないでしょう。競争の過熱は格差を生み、やがて戦争のタネとなり、何人もの高名な学者たちがこのままの生産活動を続けると地球が、人類が住むには厳しい環境になることを予測して、警鐘を鳴らし続けても、立ち止まろうとはしないのです。それを「進化」あるいは「進歩」と呼べるかはかなり疑問です。


 そもそも「進化」も「進歩」も単なる言葉であって、実体があるわけではありません。実体がないものにそこまで振りまわされるのは人間の不思議なところです。イスラエルの歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリは、人間の文明は虚構、「つくりごと」より生じていると言います。例えば、お札は、冷静に考えれば、ただの紙切れですが、それに一万円という価値を持たせて、それを獲得するのに大変な思いをして働いたり、時には殺人まで犯したりすることがあります。しかし、それらは全てつくりごとであるというわけです。


 どこまでが虚構で、どこまでが現実なのか。宗教は?AIは?科学は?生きること死ぬことは?学問を志す人は、それを豊富な知識を駆使して考えるところですが、参禅を志す人は、そこを修行していただきたいと思います。修行とは知識を糧に考えるのではなく、逆にその知識というものの全てを忘れきる作業です。

 桂琛和尚は、仏教について議論することは田圃にイネを植えて収穫して、その米をおにぎりにして食べることに及ばないと言います。なぜそうなのかというと、言葉は、人間の「つくりもの」なので、そこで優劣を競っても何にもならないということです。むしろそういうものを寄せ付けない修行をしなければならないということなのです。


 仏教とは現実のものごとの動きそのもののことです。そこに「自分」という余計事をさしはさむことなく、「徹する」ことによって本来の自己とは、仏とは何かということをよく知るのです。

「徹する」とは私たちが見たり、聞いたり、触ったり、嗅いだり、味わったりしたものごとが言葉になる前よりもさらにその前のところを修行することです。この世界、宇宙が自分とは関係のない別のものだと勘違いして、思い込みの自分をたてて、この世界を観察し始める前のところを修行するのです。難しいか簡単かはともかく、極めて単純な、たったそれだけのことが仏教なのです。それ以外のことをすると実体のない「つくりごと」の世界に埋没することになってしまうのです。

 もし本当にそういう修行ができたならば、足すところも引くところもない「もともとの自己」というものに出会えるのです。足すところも引くところもない自己なので「進化」あるいは「退化」もないということです。


 大金持ちが自宅のプールの前で飲む数百万円のワインの味と炎天下の労働の後の一杯の水との間になんの価値の隔たりがないことに心底気が付くわけです。本当の贅沢とは、地球環境を破壊するほど働かなくても、もっとずっと安価に手に入ることがわかるのです。何もしなくても最初からこの世界この宇宙の主人公は自分であったということをよく知るのです。"天上天下唯我独尊"です。そういうことがわかると、自ずと競争に勝つことが人生の目的ではないことばかりか、そもそも競争が成り立たないことがわかります。そして、それを知る功夫がいわゆる坐禅なのです。

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