~6,捨身飼虎(しゃしんしこ)~住職Jun 15 min read インドの善王・大事(だいじ)には三人の息子がいました。この三人の王子たちは、ある日、仲よく野を遊び歩いていると、飢えた母虎が、乳が出ず、自分の七匹の子を養えないばかりか、飢えをしのぐためにその子供たちを食べようとしている場面に遭遇します。上の兄たちは、同情の心を示すけれども、「虎は、いつも他の生き物たちを殺して食べている。罪深いので、これも自業自得だ」として、虎を見捨てようとします。しかし、三番目の王子、薩捶太子(さったたいし)だけは、「この身はいずれ滅ぶもの、どうして惜しむことがあろうか、身を捧げて、虎を助けるべきだ」として、虎に自分の身体を食べさせ、虎の窮状を救ってあげるのです。薩捶太子は死んでしまいましたが、虎は飢えをしのぐことができて、その子供たちも母親に食べられずにすんだということです。 お釈迦様の前世の物語として有名な捨身飼虎(しゃしんしこ)のお話です。自分の身を顧みずにほどこす布施の話として知られております。 この物語には、様々な解釈がありますが、飢えた肉食動物に自分の身体を捧げるということは、現代人の感覚ではなかなか受け入れがたいことかもしれません。 ただ言えることは、飢えた虎に身を捧げるという行為は仏の様子であるということです。また、飢えた虎に身を捧げないということも仏の様子であるということです。しかし、「虎は、いつも他の生き物を殺して食べているから、ひどい目にあっても自業自得である」という考え、あるいは、「虎に身を捧げる行為こそが素晴らしい」という考え、そういう人間の見解は、仏の様子ではないということです。 もし、虎が、いつも生き物を殺して食べていることを「悪いこと」だとすると、我々は、食事をすることができません。我々は常に動物や植物を殺して食べているので、とても困るわけです。逆に、虎に身を捧げる行為こそが「素晴らしい」としてしまうと、我々は、野山で肉食動物に出会った時は、この身を必ず捧げなくてはならないということになってしまいます。 仏の様子とは現実の世界、実際のものごとの働きそのもののことです。そこに全く矛盾はありません。仏の様子とは、どこか遠くの神秘的な世界のことではなく、皆さんが、いつでもどこでも目の前にしている全てのものごとの様子のことです。それが全部皆さん自身のことであり、仏の様子なのです。けれども、人間の考え、見解は、その仏から離れたところ、つまりは、現実から離れたところ、私たちの頭の中だけで生じています。そこには、いろいろな矛盾があります。その矛盾の部分が悩みのタネになったり、争いのタネになったりします。それが国同士の矛盾になれば、戦争になることもあるわけです。 第二次世界大戦中にフランスのリムーザン県のオラドゥール村という小さな村でナチスドイツの兵士によって村人のほとんどが殺されるとても残酷な事件が起きました。この事件は戦後、裁判にかけられて殺人者たちは有罪となります。問題は、その殺人者の中に同じフランス人が混じっていたということです。 フランスとドイツの国境にアルザスという現在フランスの領土となっている地域があります。この地域は、フランスとドイツが戦争するたびにその勝敗の結果によってドイツ領になったり、フランス領になったりしていました。1940年、大戦開始当初、ドイツはフランスに勝利していたので、オラドゥール村の事件が起きた当時は、アルザスは、ドイツの領土でした。そういう経緯で、アルザスの人たちがドイツ人として徴兵され、オラドゥール村を襲撃した兵士の中に混じっていたのです。 戦後、このオラドゥール村の事件について裁判が行われて、一度は、有罪となったアルザスの人たちでしたが、入隊は、強要されたことであるという抗議がアルザスからされて、フランス政府はその抗議を受け入れてアルザスの人たちを釈放します。しかし、リムーザン県の人たちは、そのフランス政府の決定に、納得することはできませんでした。 オラドゥール村は、事件の当時のままの様子で現在も戦争遺産として保存され、多くの観光客が訪れる場所にもなっています。そこには、石板があり、石板には、加害者たちの名前が刻まれています。その中にいまだにアルザスの人たちの名前があるとのことです。 正論と正論がぶつかった時、その解決が、とても困難になることがあります。お互い正義なので、譲ることができないからです。 人間の見解というものは、よくできているのですが、現実と異なるところは、どこかで必ず矛盾が生まれるということです。矛盾は、正義と正義がぶつかることで生まれます。そういうものをずっと持ち続けていると、時として大きな争いのタネになることがあります。どこかでその正義を手放さないと根本的に争いは終わりません。 坐禅は、そういう矛盾や危うさをはらんだ人間の見解から離れきる功夫です。一度でもそういうものから完全に離れることができますと、自分がもともとなんの矛盾もない、そして、矛盾が生み出す悩みのタネや、争いのタネがない仏の有り様の真ん中にいたことに気が付くことになります。この修行の特徴は、これから何かを獲得するのではないのです。修行の材料はもうそろっているということです。逆に、自分が自分であると思っている余計事を手放す功夫なのです。余計なものがとれますと、自分がもともと常に新しく生まれ変わる(諸行無常)なんのわだかまりもない(諸法無我)世界に安住している(涅槃寂静)ことに気が付くのです。
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