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~1,不思量底を思量する~

  • 住職
  • Dec 27, 2024
  • 5 min read

Updated: Mar 1

道元禅師の普勧坐禅儀の中に登場する「不思量底(ふしりょうてい)を思量(しりょう)する」という言葉を題材にお話をしたいと思います。

「不思量底を思量する」とは、「考えないことを考える」という意味になりますが、「心から離れてものを考える」と言ったらわかりやすいかもしれません。
 現代は、「心の時代」と言われることがありますが、心こそが自分自身であると思っている人が多いのではないでしょうか?

 心は、私たちの道具で、第一のコンピュータと言ってもいいものです。とても便利なものですが、私たちそのものではありません。それを自分自身だと思うことで、いろいろな問題が起きます。
 心はとても繊細で、好き嫌いが激しく、扱いがなかなか難しいのは皆さんもご承知のとおりです。好きなものはとことん好きで、嫌いなものはとことん嫌いです。皆さんのいわゆる本音の部分にあたってみれば、そのことはよくわかると思います。
 例えば、私たちは、死を恐れて、なんとか生き延びようとするようにできておりますが、心はさらにそこに色をつけます。死を恐れるあまり、地獄や天国のようなものを想像してみたり、ピラミッドのような巨大お墓を作ったりするのです。明らかにあやしい宗教に何千万も寄付をする人もいます。まあ、私もお布施で生活している身ではありますが。

 生きることに対する心の執着もなかなかのものです。皆さんが、幸せになりたい、人生を楽しみたいと思うのは、私も推奨するところです。でも、人より幸せになりたい、人よりもいい人生を送りたいと思うことには賛同しかねます。何故なら、そんなふうに思い始めると、人より幸せになるために競争に勝たないといけないと思うようになるからです。
 現代の世の中はお金を稼ぐ競争をしているように思います。みんなで仲良く富を分けようという動きがないわけではないですが、競争の動きに比べるととても弱いと言うほかありません。
 ほんの一握りの人が、何兆円もの資産を持ち、一日中働いて数百円という人が人口の多数を占めるのが世界の現状です。昔の封建社会と変わらないどころか、封建社会よりもひどい格差社会です。自然破壊もお構いなしです。近年、二酸化炭素の増加による地球温暖化が問題になっておりますが、実はその二酸化炭素を海が大量に吸収してくれています。それにより、温暖化が急激に進まないのだそうです。けれども、それはいいことばかりではありません。海が二酸化炭素を吸収すると海水が少しだけ酸性になるのだそうです。人間にはほとんど影響がないのですが、小さな生物はそれによって体が溶けてしまいます。北極にミジンウキマイマイという小さなプランクトンがいるのですが、数が激減しています。ミジンウキマイマイは、他の生物の食料になっていて、このままだと海の生物の20%がいなくなるそうです。深刻な自然破壊です。食糧問題を引き起こすかもしれません。お金がいくらあっても地球が住めないところでは元も子もありません。そして激しい競争の行き着く先は戦争です。戦争においては、悲惨なことはなんでも起こります。
 
 こういうことへの抜本的な対策が行われないのは、ここまでのことが起こっても心の執着というものは止めることがなかなか難しいことを物語っています。心は、私たちを楽しませてくれるものでもありますが、同時に私たちを破滅に導く原因にもなりえるということです。

 「不思量底を思量する」とは、一度でもいいので、心を手放してものを見なさいと言っているのです。そうすると余計事に左右されずにものごとがきっちりと見えるようになるのです。きっちりと見えれば、間違いも起こさないということです。
 そして、心を手放しきる功夫こそが坐禅なのです。簡単か難しいかはともかく、特別な知識や強靭な体を必要としない修行であることは確かです。

ためしに自分の悪いと思うところを手放してみて下さい。それは、とても簡単です。何故ならもう悪いと知っているからです。すでに離れているのです。

 では、自分が良いと思うところを手放してみて下さい。これはなかなか難しいです。なぜなら、自分の生きる信条だったり、正義だったりするからです。ですが、ここが一番の修行のしどころです。正しいということまで手放すのはおかしいと思う人は、だれかとケンカをしている時のことを思い出してみてください。
 ケンカをしている人は大抵こう言います。
「オレが正しくてお前が間違っている。」
 でもケンカの相手は、きっとこういうでしょう。
「いやいや、オレこそ正しくてお前こそ間違っている。」
 
 ケンカは、正しいことと正しいことのぶつかり合いです。正しいと主張し合っている間は、争いは終わりません。戦争している国の元首は必ずこう言います。「オレこそが正しいのだから、オレについてこい。」と。でも、自分こそが正しいと言っている間に何人もの人が死ぬことになるわけです。
 
 心を手放すとは、自分が自分であると思っている余計事をすべて手放しきるということです。これが坐禅であり、これ以外のことはまさに余計事です。
 心が無くなったら困るじゃないかと思う人もいるかもしれませんが、心を手放しても、心はすぐに自分のところに戻ってきます。それも自分の持ち物として戻ってくるのです。心が自分の持ち物であることを知ると心が暴れなくなります。上手に笑えて、上手に泣けるようになるのです。怒ることですら上手に出来るようになります。
 
 そうやって自分が自分であると思っている余計事をすべて手放すと本来の自己に出会うことになります。本来の自己とは、この世界に遍く行きわたる一つの自己のことです。一つの自分なので、根本的に競争にならないし、争いなんて馬鹿らしくてできないということがよくわかるのです。 

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