~ 5,南泉斬猫(なんせんざんびょう)~住職2 days ago4 min read 坐禅の有名なお話に「南泉斬猫(なんせんざんびょう)」というお話があります。 中国の禅僧、南泉和尚はたくさんのお弟子さんがおられたのですが、ある時、その弟子たちが、迷い込んできた猫を囲んで東西に分かれて、猫に仏性があるかどうか(猫が仏であるかどうか)という大議論をしているところに遭遇します。すると南泉は、片手で猫をらんぼうにつかむと、もう一方の手には短刀を持って、「きちんとした答えが出なければ、この猫を殺してしまうぞ」と修行僧たちを脅します。しかし、ついに誰も師匠の納得のいく答えを出すことができず、とうとう南泉は、短刀で猫を切り殺してしまいます。 その夜、趙州(じょうしゅう)という一番弟子が外の用事から帰ってくると南泉は、「昼間こういうことがあったが、お前ならどうする」と聞きます。すると趙州は、奥に一度引っ込むと頭に草履をのせて出てきます。それを見た南泉は、「ああ、昼間、お前がいたら、オレは猫を殺さずにすんだのになあ」と言ったのです。 こういう物語を禅宗では「公案」というのですが、「なぞなぞ」ではないことをあらかじめ申し上げておきます。坐禅の修行が成就するためのお手伝いをするお話です。 ただ言えるのは、猫には仏性があるということ、それは、生きている・死んでいるに関わらないこと、すべてのものごとは、それぞれ、完全に異なるもの(差別〈シャベツ〉といいます。通常使われる差別とは異なります)であり、比較することができず、比較できないからこそ完璧で、貴賤(きせん)というものがないということです。そして、そういうこの世界の様子が全て自分のものであるということです。 南泉は、猫を殺してしまってひどい和尚であると動物愛護の方はおっしゃるかもしれませんが、そういう話ではないのです。生きているということが尊くて、死んだら穢れ(けがれ)というようなことがないと言っているわけです。生きることも死ぬことも優劣がつけられないということです。つまりは、仏性(仏であること・つまりは目覚めた自身の様子)というものは、生物無生物に関わらないということを言っています。草履は、人に履かれて、人の足を守るという性質のもので、趙州和尚は、人間という性質を持っております。それが逆転してしまっては、少なくとも草履は、人間の想定した役割を全く果たしませんが、そうであってもおかしいところは一つもないということです。 おかしいところが一つもないというのは、大事なことです。もし、靴を履かずに頭の上にのせて歩いている人がいたら、「あの人は、ちょっとおかしい人だ。普通でない」と警戒したり、時には馬鹿にしたりすることがあるかもしれません。しかし、本来、おかしいところも、馬鹿にできるところもないということです。仕事の間違いを注意したり、迷惑ごとに対しては声を上げることは大事ですが、考えが違ったり、姿が個性的だったりする人を馬鹿にすることは言語道断ということです。 人は、物事を二つに分けて比較するという考え方が、身に沁みついています。特に、生きること死ぬことに大変な執着を持ちます。執着しすぎるゆえに生きることがとんでもない苦しみに思えたり、死ぬことがとんでもなく悪いものに思えたりすることがあります。しかし、生も死も、どちらも悪いものでも良いものでもありません。それどころか、生きる・死ぬというものは人間が考えたものでそもそもあるものではありません。般若心経では、「不生不滅」(生まれず、滅せず)と言います。道元禅師は、「生死なし」とおっしゃいました。 自死を肯定しているわけではありません。ものごとを良い・悪いというようなものに分ける人間の見識から離れるとそういうことがはっきりするということです。良し悪しがないので価値がつけられないということです。価値がつけられないから唯一無二ということになります。それでもう完璧だということです。それがこの世界の全てのものごとの様子で、その様子の全てが自分のものであるということを知るのです。生きていても、死んでいても、揺るぎない価値観を持ちながらも、それを押し付けることがなく、誰にも傷つけられるところもなく、誰かを傷つけようという考えにもおよばない自分というのが、本来の有り方だということです。ですから、自分の立場や境遇を悲観して、自殺というような考え方に自分が至るということがそもそも難しいということです。 もう一つ付け加えておきますと、極めて重い病気で苦しむ人が安楽死を選ぶことと自殺は異なります。死というものを過剰にとらえて、自ら選ぶ死というものを何でも否定するのは大きな間違いです。ただ、身体の事情が許すのであれば、ぜひ、人間の見解を離れる修行をしていただきたいと思います。この修行こそが坐禅なのです。そして、この修行は、ベッドの中にあってもできるのです。 これらのことは、死ぬことが怖くないということではありません。我々は、死ぬことが怖く感じるように心と身体ができております。そして、それは、我々の大事な機能の一つなのです。ただ、そこに余計事が付かないということなのです。このことがとても大事なのです。余計事がつかなければ、安心して生きて、安心して死んでいけるというわけです。