~4,喫茶喫飯(きっさきっぱん)~住職Apr 15 min read 坐禅とは、目の前のことそれきりしかない自分を知ることです。それは、自分が自分であると思っているものを全て捨てきることでもあります。 もうだいぶ前のことになりますが、静岡県掛川市の少林寺・井上貫道老師のところに坐禅の修行に行くことがありました。その道場では、30人ほどの人が集まって、三泊四日のスケジュールで坐禅の修行をすることになっていました。集まった30人のうち、出家の人はほんのわずかで、ほとんどが在家の人ばかりでした。それも老若男女、下は二十代、上は、七十代の人まで、男女織り交ぜての人たちが衣食住を共にして坐禅の修行をしました。坐禅の修行が始まって思ったことは、食事の時間がとてもゆっくりであるということでした。一度の食事に30分から40分ほどもかけるのです。食事も大事な修行なので黙って食べます。沈黙した状態でそれくらいの時間をかけて食事をすると、とてもゆっくりと食べることになります。 わたしは、独参という質問の時間に、その食事のことについて、井上老師に尋ねてみました。すると「一番食べるのが遅い人にあわせて食事をするのが基本」というお答えが返ってきました。 最初に申しました通り、その坐禅の修行には、様々な方が参加しておられました。 お年寄りの方は、もしかしたら、身体の都合で早く食べることができないかもしれません。また、お年寄りでなくても、身体の都合ではやく食事をすることが難しい人もいるかもしれません。坐禅の修行はどなたでも門戸が開かれている修行です。だれにでも修行に必要な栄養を取る権利があるというわけです。そして、自分がそういうことにまったく目がいっていなかったということに気が付いたのです。 食事の時、自分の中にあったことは、修行のスケジュールで、ものごとをいかに合理的に早く終わらせるかということを念頭に置いた自分の戦略のようなものでした。そうではなくて、わたしが取り組むべきものは、目の前の食事のことだったのです。作法通りにやれているか、きれいに食べられているか、他の人たちがきちんと食事をできているかということです。そういうことがおろそかになると目の前の修行のチャンスを逃してしまうということです。 どんなに高い目標を立てたとしても、私たちは目の前のことしかできません。目標を達成できるかはともかく、目の前のことを楽しめる人生は幸せです。目標の達成よりも目の前のことのほうが楽しいと思えたら、もはや生きる達人です。 魚釣りが好きな人は釣りが下手でも釣りに出かけます。時間もたっぷり取ろうとします。ゴルフが好きな人はゴルフが上手でなくてもゴルフに出かけます。できるだけ長くそれを楽しもうとするのです。 昆虫記で有名なファーブルは、学校の教師や、家庭教師の仕事の合間に嬉々として野山に出かけて行って、昆虫の観察を続けて、それをノートに書き溜めておいて、55歳になったときに有名なファーブル昆虫記を書き始めたのだそうです。 とにかく現代は、先回りの時代です。学校にいる時は、社会で有利な立場につくために勉強しろと言われ、働いている時は、老後の資金をためろと言われ、老後になったら、終活をしろと言われるのです。それはそれで大事なことかもしれませんが、あまりにそれがすぎると「では、自分はいつ人生を楽しんだのか?」ということになりかねません。僧侶の立場から言わせてもらえば、目の前の仏に気が付かないということです。 横浜鶴見の總持寺をお開きになった瑩山禅師のお悟りの言葉は「喫茶喫飯」という言葉です。「お茶を飲んだら、その味わいだけ、ご飯を食べたら、その味わいだけ、それ以外は幻である」という意味です。上手に調理をしたものを食べれば、涎がしたたるかもしれません。あまりにひどい調理のものを食べれば、思わず吐き出してしまうかもしれません。しかし、そこに「うまい」「まずい」はないということです。もし、皆さんの中に「うまい」「まずい」が出てきたら、そのことは過去にことになり、そのとたんにそれは幻になるのです。未来のこともそうです。私たちは、未来のことを予測したり、考えたりすることができます。しかし、それはまだ起きていません。皆さんの頭の中にのみ存在することです。皆さんの頭の中のみに存在することは幻なのです。 では、私たちにとって何が本来であるのかというと、私たちが私たちの身体と心を使って、見たり、聞いたり、触ったり、嗅いだり、味わったりしているその刹那が私たちにとっての本来の自己であるということです。 自分が本当に好きな映画を見ている時、私たちは、その映画の登場人物になっています。本当に好きな音楽を聴いている時は音楽そのものになって感動しています。スポーツに熱中している時は、スポーツそのものの自分です。そこに過去の自分やら、未来の自分をさしはさむ余地がありません。道元禅師は、「坐禅はなんのためにするのか」と問われて、「坐禅は坐禅のためにする」とお答えになりました。それ以外に答えてみようがないからです。 自分とものごとの区別がないことを「三昧」と言います。私たちはいつでも三昧です。しかし、そのことにほとんど気が付いておりません。どうしてもそこに自分というものをさしはさんでものごとを見てしまうのです。その分が悩みのタネだったり、争いのタネだったりするのです。本当は、その分だけ余計で、人生の楽しみを奪うものになりかねないのです。 もし皆さんがどこでも、どんな時でも「三昧」であることに気が付いたなら、過去の自分、未来の自分というような幻の鎖から解き放たれた大自然、大宇宙に遊ぶ自由自在の自己に出会えるのです。
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