~3,お葬式~住職Mar 16 min read 「もし自分が死んだら、川に放り込んでその肉を魚のエサにしてもらうのが理想的である」とある人に話したところ、大変な怒りようでいろいろと注意を受けました。葬儀というものを営む立場にある住職がそのような発言をすることは不謹慎であるというわけです。 なかなか面白い話題なので、ここでもう少し掘り下げてみたいと思います。 まず、常識的なことを言いますと「葬儀をしないと極楽に行けない」というようなことを、少なくとも禅家の立場の人が言うことは、あまりよろしくないということです。そんなことは全くないですし、死んだ人は、葬儀などあげなくともすでに成仏しております。 立派な葬儀を行えば、成仏が深まるということもないですし、長い戒名をつけたからといって仏の位が上がるということもありません。死ぬ年齢も、死に方も関係ありません。たとえ自死であっても成仏なのです。 ただし、誤解をまねかないために言っておきますと自死に至るまでの「心の動き」は仏の様子、仏の行いではないということです。仏の様子、仏の行いとは現実の世界の「全てのものごとのはたらき」のことを言います。人の「心の動き」は、そういう現実というものから離れたところで起きています。私たちの頭の中だけで起きているのです。頭の中だけで起きていることは、どんなによくできていても全て幻なのです。どんなに立派な心であっても、それは仏ではありません。むしろ、立派である、素晴らしいと思う心ほど危険が大きいと言えます。素晴らしいと思うがゆえに執着となり、そのため、悩みや迷い、あるいは怒り、苦しみも深いのです。手に負えないと思ったら、早々に手放すことがお勧めです。そういうものが元々ないもので問題にしなくてもいいことに気が付くことが大事なのです。極めて重い病で苦しむ人が安楽死を選択するようなこと以外で自死をする理由がそもそもないということです。 さらに我々は生きていても仏です。いつでもどこでも仏の有り様のど真ん中です。お釈迦様が言うところの「天上天下唯我独尊」なのです。この世の「王」というわけです。そんな私たちが葬儀をしないと成仏しないなんてナンセンスです。 それならば、「葬儀はしなくてよいのか」というと「そういうわけにもいかない」とお答えしなければならないのが現状です。 私の商売が失われてしまうから言っているわけではありません。 なぜなら、我々は、「生きていても仏。死んでも仏。」ということに納得していないからです。そのため死というものを必要以上に恐れたり、逆に生きるということに必要以上に執着を持ったりして、かえって自分の活動を極めて窮屈なものにしてしまっているのです。だから、僧侶というものを呼んで、葬儀という修行をする必要があるのです。そして、僧侶もまた「死ぬ」あるいは「生きる」ということを喪主家の方々や参列の方々と修行しなければならないのです。勉強ではなくて修行するということです。 かつて、「葬式坊主」というとあまり良い意味では使われませんでしたが、お葬式は、修行と布教が同時にできる貴重な場なのです。大いにやる価値があります。 では、そのお葬式はどんな修行かというと、お葬式は、「自分を味わい尽くして、最後にそのすべてを手放す」という修行です。 身内の方、親しくしていた方、そういう方が亡くなった時の気持ちは時として耐え難い苦痛を私たちにもたらします。多くの場合、そういうものを短時間で克服することはちょっと難しいです。また、一人の中にしまっておくことはなかなかつらいことですし、そういう我慢はしない方がよいでしょう。 葬儀においては、そういう自分というものを表に出していただいたうえで、じっくりと味わうつもりでやっていただくのがお勧めです。お葬式で大の大人が泣いたとしても誰も文句は言いません。お葬式はむしろそういう時間ですし、そういう場所なのです。誰に遠慮することなく心ゆくまでやっていただくのがよろしいです。つまりは、悲しい時は悲しむだけ悲しむほかないということです。つめたい言い方かもしれませんが、ほかにやりようがないのです。 葬儀という修行は、二日くらいでは、決着がつくものではありません。この修行は、いわゆる葬儀式というものが終わってからも続くことになると思います。ゆっくり、じっくり、それなりの時間をかけてやらなくてはなりません。決して楽な時間ではないですが、これも修行と思えば乗り切るための力がいかばかりか湧いてくることと思います。 しかし、この時間もいつまでも続くものではありません。 最後に、どこかで必ず、その味わい尽くしたものの一切を手放すのです。 大切な人に対する大事な思いであっても遠慮なく、全て捨てきるのです。かけらの一つも残さず、情けも、道徳のようなものも含めて、宗教のようなものも、坐禅の教えすら、容赦なく、全部捨てきって下さい。それで修行は完成となるのです。 よく自分がいつまでも悲しんでいないと死んだ人が成仏しないと思い込んでしまう人がいますが、そうではありません。皆さんが悲しみというものを味わい尽くしてその一切を手放したときまず皆さんが成仏します。そしてそれと同時に死んだ人も成仏するのです。 悲しいことは手放してもかまわない。この修行には終わりがあるということです。 特別なことを言っているわけじゃないのです。身内の誰か、親しくしている誰かが亡くなって非常な悲しみを味わう、しかし、その悲しみを乗り越えて人生の新しいステージに進むということは、方法の違いはあるかもしれないけれど、どの国の人も、どの宗教の人も必ずやっていることです。それを純粋に徹底的にやって下さいと言っているだけのことです。言い方をかえると「悲しみを思い出にかえる」ことに徹してくださいということです。 そして、そういうことがまさに坐禅なのです。寒くて薄暗いところで座っていて、時折棒でたたかれるというのは一つの形でしかないということです。 本当にそういうものに徹しきるということは、自分という余計事を立ててこの世界を観察していたという間違いに気が付くことです。そうすると、道元禅師の言葉を借りますと「生も一時のくらゐなり、死も一時のくらゐなり。たとへば、冬と春のごとし。冬の春になるとおもはず。春が夏になるとはいはぬなり。」とあるように生死というものも含めて、春夏秋冬という季節の移り変わりも含め、後戻りすることもなく、一度として同じ形にならないこの宇宙の働きの全てが本来の自己そのものであることに気が付くことになります。すると「生きていても仏、死んでも仏」ということに納得することができるのです。また、般若心経にあるように「生まれず、滅せず」が、我々の本来であるということに気が付くことでもあります。 しかし、もし、皆さんがそんな修行をせずとも、そういうことに納得しているというのであれば、死んだら川に放り込んで、魚のエサにするのが理想的というわけです。無駄なく大自然の糧になるというわけです。
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