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~2,法眼指簾(ほうげんしれん)~

  • 住職
  • Jan 24
  • 4 min read

Updated: Mar 1

 昔の中国の禅僧、法眼清涼文益(ほうげんせいりょうぶんえき)は、ある時、建物の中にいて、外の景色を見ようと思いました。弟子に下りていた簾(れん)を上げさせようと思って、まず簾を指差します。たまたま二人の弟子がそばに控えていて、その一人がまだ法眼が何も言わないうちに簾を上げてくれます。もう一人はそのことに気が付くことができませんでした。その時、法眼は「一つ得て、一つ失う」と言います。師匠が何かを言う前に簾を上げた修行僧か優れていて、そのタイミングを逃した修行僧が修行未熟であるという意味ではありません。
 法眼和尚が言いたかったことは、気が利くとか、気が利かないとか、才能や能力とか、境遇といったものは仏道には関係ないということです。むしろ、そういう比較や優劣から離れ切らないと仏が何なのかがわからないと言っているのです。

 私たち人間は、物事を二つに分けて比較するという考え方が身に沁みついております。善悪とか、きれい汚いとか、おいしいまずいとかがそうです。
 それらは、便利なものですが、もともとあったものではありません。人間が作り出したものです。人間が編み出した考え方なのです。
 二つに分けられるものは、すべてそうです。生きる、死ぬも二つに分けて比較するものの考え方です。そういうことすら、もともとあったものではありません。だから、般若心経でも「不生不滅・生まれず滅せず」というのです。道元禅師は「生死無し」とおっしゃいました。
 ものごとを二つに分けて考えることは、人間の特徴的な見解です。我々はそういうものが作り物であるということをよく知らなければなりません。比較するなと言っているわけではないのです。そういうものがもともと無いということをはっきりさせなければいけないということです。そういうものがはっきりしていないと大きな間違いをしでかすということです。
 そういうことをはっきりさせるためには、一度人間の見解というものからすっかり離れきってしまう必要があります。その人間の見解から離れ切る修行こそが坐禅なのです。勉強して知識を蓄えるようなことではちょっと難しいのです。
 一度でも人の見解というものから離れることができますと、すべてのものごとが、それぞれが、それぞれの場所できちんとおさまっていることがわかります。それで、もう完璧なのです。比較することも優劣もつけることもできないことがわかるのです。
 そして、面白いことにそれらのすべてが自分自身の様子、自分自身のことであることがわかるのです。この世界、この宇宙の主役であったことがわかるのです。
 お釈迦様は、それを天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)とおっしゃいました。

 もう少し、話を続けます。
 平原麻紀さんという方をご存じでしょうか?カルーセル麻紀さんと言ったらわかる方もいるかもしれません。麻紀さんは、男性に生まれたけれど女性の格好をしたくて、男性を愛する人です。戦中の生まれで、1973年に性別適合手術を受けて男性から女性になった人です。手術を受けた後、四十度の熱を出し、生きるか死ぬかという体験をしたなどなかなか波瀾万丈な人生の方です。しかし、それゆえに同じ境遇の後輩に勇気を与えてきた人でもあります。
 その平原麻紀さんは、ある時、NHKの番組のインタビューに答えておられて、その中で、自分と同じ性の形を持った後輩たちに「女になっても自分が男であったことを忘れるな」と話しておられました。どうしてそんなことを言ったのかというと、そういう性の形を持った方々の中には、自分のことを女性にもなりきれない、男性にもなりきれない中途半端な存在であると思い込んでしまう人がいて、それが大きな悩みのタネとなり、中には自ら命を絶つ方もいらっしゃるのだそうです。麻紀さんは、「男に生まれ、女になった自分で一人前なんだ」と言っておられました。そして、もし自分が生まれ変わったら、再び男でありながら女の心を持った存在で生まれたいと宣言したのです。間違いのないことですが、そのために大変なご苦労があったのにそこまで言い切るなんて、本当にすごく強く、逞しい人だと思いました。そして同時にそれは問題だと思いました。ここまで、強くないとそういう方々は、堂々と生きていけないことが大問題だと思ったわけです。たまたまそういう形で生まれてきただけのことなのに他の人の何倍も苦労があるわけです。
 
 人のことをきちんと認めてあげられない人は、自分のこともきちんと認めていない人です。なぜなら、そういう人は、完璧な何かがあると思い込んでいて、それを基準に自分がその完璧な何かにより近いものだと思い込んでいる人だからです。より近いと思っているだけで、自分も完璧ではないと思っているわけです。
 そうではなくて、我々は、もともと最初からそれぞれが、もうすでに、そのままで、それぞれの場所にきちんとおさまっているのです。それでもう完璧なのです。そして、その様子の全てが本来の自己なのです。比較もできなければ優劣のつけようもないんです。そのことがわかると自分も堂々していられますし、誰かを馬鹿にすることが馬鹿らしくなるのです。


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